【第二章】 「うー、寒い」 「おはようございます。言葉さん」  ロッジに入ってきた言葉を出迎えたのは絵美だった。 「おはよー」  絵美は言葉に席を勧めると、「お茶を淹れますね」と言って対面キッチンへと入っていく。 「フミ兄、おはよ。なに食べてるの?」  言葉は文章の隣に座ると、その前に置かれた小さな丼を見て言った。 「おはよう、言葉。ん? これか? これは、おかゆじゃないかな」  そう言うと、文章はれんげでおかゆをすくい言葉の前に差し出した。  れんげからは湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが流れてくる。 「フミ兄、その糸生姜と油条(ヤウティウ)も乗っけてくれる?」 「ヨウ……、何だって?」 「ヤウティウ。その小皿にある中華風揚げパンのことよ」 「面倒な奴だな」  そう言いながらも文章は、れんげにトッピングを乗せていく。 「本当にフミ兄は料理に疎いよね」 「ほら、これでいいだろ?」 「ありがと。いただきまーす」  ぶっきらぼうに差し出されたれんげに言葉が口を伸ばすと、キッチンのほうから足音が小走りで近づいてきた。 「ななな、何をしてるんですか⁉」  近づく気配に視線をやれば、絵美が手にしたティーセットを震わせながら立っている。 「ん?」  絵美に目をやりながらも、言葉は気にせずれんげを口に頬張った。 「ああああああ!」  叫び声を上げる絵美を不思議そうに見上げながら、言葉はおかゆをハフハフしている。  両手でその顔を挟み込んだ絵美は、言葉の口を凝視して叫んだ。 「あんた、なんてことをしてるんや!」        ◆  言葉の隣で絵美がふてくされている。  絵美は文章と言葉の間に座ると、「もう少し離れてください」と言葉を横へと押した。 「そんなに怒らなくても……」  暖かな部屋の中で、言葉はあくびをしながら椅子を少し横へとずらす。 「怒ってなんかいません」  そっぽを向く絵美に言葉が呆れていると、絵美の淹れた紅茶を飲んでいた文章が、一息ついてから二人へと話しかける。 「じゃあ、今日のことについて話をしようか」 「あれ? おじいはいいの?」  言葉が周りを見回すが、どこにも書道の姿はなかった。 「師匠は朝早くに遺跡の調査に行ったよ」 「もう? じゃあ、またしばらく会えないのかー」 「書道様は、相変わらずお忙しいのですね」  二人の残念そうな顔に、文章は胸を張って言った。 「師匠は世界的な有名人だからな。まあ、今回の件は俺に任せとけば問題ない」  自信ありげに言う文章に、言葉は無言で視線だけを向けた。 「なんだ? その目は」 「ううん。こっちは気にしないで進めて」  訝しむ文章に、言葉は貼り付けたような笑顔を返した。  しばらく二人の間に沈黙が流れるが、文章は頭を切り換えると言葉の前に一冊の手帳を置いた。 「あれ? これ、昨日のとは色が違うね」  文章の手帳と同じようにSEALSと書かれてはいるが、その表紙はオレンジ色をしていた。 「あれは俺のだからな。これは予備の手帳だ」 「へえ。これ、もらっていいの?」  言葉が手にした手帳を見ながら文章に聞く。 「やらん。貸すだけだ」 「えー」 「言葉さん、私にも見せてくださいよ」  不満を漏らす言葉の横で、絵美は物欲しそうに手帳を見ていた。 「ああ、神代さんには、この辞典を」  そんな絵美に文章がそう言って渡したのは、文庫本サイズの辞典だった。 「え⁉ 私にですか?」  絵美は目を輝かせて辞典を受け取る。  光沢のある表紙には、黒い十字のラインが描かれていた。 「きゃ……」  短く悲鳴のような声を上げると、絵美はうっとりと辞典を見つめた。 「絵美?」  絵美は辞典の向きを変えながら、しきりに感嘆の溜息を漏らして言う。 「キャストコート紙の表紙ですよ、言葉さん! きれいですね!」 「そ、そうね」  絵美の勢いに少し気圧されながら言葉は答えた。  言葉の目の前では、今度は絵美が辞典を手でさすったり頬ずりをしている。 「まずは、その手帳と辞典の説明からだ」  そんな二人をよそに、文章は淡々と話を始めた。 「ほら、絵美。話を聞くよ」  言葉は絵美から素早く辞典を取り上げると、テーブルの上に置いて文章のほうに顔を向ける。 「ああ、私の辞典……」  その横で、絵美は名残惜しそうに辞典に手を伸ばしていたが、文章がこちらを見ていること気がつくと、慌てて姿勢を正した。 「あ、すみません。あの、文章様、お話をどうぞ」  恥ずかしそうに言う絵美に、文章は頷いて話を続けた。 「まずはこの手帳だが、これにはプリントを封印する仕掛けが施されている」  手に取った手帳を開いて、文章は表紙の裏を二人に見せた。  そこには円を基調にした模様が、大きく一つ描かれていた。 「もしかして、これもプリント?」 「ああ」  手帳を裏返しながら文章は頷く。そして裏表紙から手帳を開くと、そこにも同じような模様が描かれていた。 「この二つのプリントが、手帳内のページを全て管理してるんだ」 「管理?」 「ここを見てくれ」  開いた手帳の背を指さして文章は言った。  そこにはページを綴じるためのリングもなければ、糊や紐で綴じているような跡もなかった。  言葉は試しに数ページを捲ってみたが、ばらけることなく普通に捲ることができる。 「フミ兄、これ、どうやって綴じてるの?」 「これが、このプリントの力だよ」 「へえ。で、これだけ?」 「これだけって、おまえな……」 「だって、これなら普通に綴じればいいじゃん。ね、絵美?」 「そうですね」  驚かない二人に文章は納得のいかない様子だったが、取り敢えず話を続けることにした。 「まあ、これだけじゃないが……。それは実際に封印の説明をしながらにしよう」  文章は懐から自分の手帳を取り出すと、その表紙をテンポよく叩き始めた。  トントン トントトント トントト トトン。  すると、閉じたままの手帳からページが一枚だけ飛び出してきた。 「おお」  言葉が、手品でも見る子供のようにわざとらしく拍手をする。  その横で、絵美も楽しそうに驚いた顔をしていた。  文章は飛び出したページを素早く手に取ると、それをテーブルに置く。  そして腕を振り上げると、勢いよく手のひらを紙の上に叩きつけた。  テーブルを打ち付ける大きな音が響き、その音に絵美は短い悲鳴を上げて、言葉は耳を塞いだ。 「びっくりしたー。いきなり何するのよ」 「あー、悪い。こいつを試しに封印しようと思ってな」  手のひらとともに文章が紙をどけると、そこにはいつの間にか何かが描かれていた。  それは、単純な線だけで描かれた「人」だった。  いわゆる棒人間というやつだ。  棒人間はふらふらとした感じで、頭上には星が衛星のように回っている。 「あら可愛い」  絵美が棒人間を突っつくと、棒人間はよろめいてそのまま倒れた。そして、ピクピクと痙攣し始める。 「何? この、浜に打ち上げられた魚みたいな棒人間は?」  絵美とは対照的に、言葉は少し引き気味な表情で言う。 「地下の書庫に住んでるプリントだ」 「え? 地下に住んでる?」 「ああ、言ってなかったか。あの地下はプリントの巣なんだ」 「巣って……。あそこ全部が?」 「そうだが?」  言葉は地下に広がる闇を思い出して黙り込んだ。 「あの、文章様。では、あそこにある本は……」 「プリントの家みたいなものだな。まあ、住んでるのは、ほとんど、こいつみたいに何の能力も持たないプリントだが」 「そうなんですか。ぜひ、ほかのプリントさんも見てみたいですわ」  そう言って目の前のプリントと戯れている絵美の横で、言葉は青ざめた顔をしていた。 「言葉、どうした?」 「あ、えーと、こんな黒い棒みたいのが、あの本全てにいるんでしょ?」 「まあ、そうだな」 「それが動いてる様子を想像したら、ちょっと……」  言葉は笑顔を浮かべていたが、その頬は引きつっていた。 「言葉、おまえ……」 「それって、まるでゴキ……」 「わああああああ!」  文章が慌てて叫び声を上げる。 「文章様⁉」  急に大声を出した文章に絵美は驚くが、文章はそれに構わず言葉を指さして一気にまくし立てた。 「おまえ! いいか、それ以上言うなよ! 言ったら、おまえが今想像したことを現実にしてやるからな!」  鬼気迫った様子で言う文章に、言葉は無言で何度も頷いた。 「どうしたんですか、文章様? それに言葉さんも。二人して汗なんかかいて」 「いや、なんでもないんだ。ほんとに。急に大声出してすまなかった」 「そうそう! なんでもない、なんでもない。いやー、フミ兄、ちょっとこの部屋暑くない?」 「ああ、そうだな」  引きつった笑みを浮かべながら話す二人に、絵美は小首をかしげる。 「は、話を戻そう。こいつを手帳に封印するんだが……」  一呼吸置くと、文章はさっき手帳から飛び出した紙を言葉と絵美の前に置いた。  紙には四方に太い線で黒い縁取りがしてある。 「感覚としては、封印というよりは捕獲だな。言葉。虫……、じゃなくて、例えばライオンを捕まえるには何を使う?」 「そ、そうね。ライオンと言えば、檻かな?」  何かを思い出したのか、言葉は身震いしながらも文章の質問に答える。 「そう。何かを捉えて閉じ込めておくには檻を使う。だが、物の表面を自由に移動できるプリントに普通の檻では意味がない」 「つまり、その紙がプリント用の檻ということですか?」  絵美が人差し指を立てながら言うが、その指ではプリントが動き回っていた。 「絵美、あんた……」  可愛らしい子犬でも見るようにプリントを見つめる絵美に、言葉はジト目でつぶやいた。 「何ですか、言葉さん。あ、くろっちさんは渡しませんよ」 「くろっち?」 「黒いから、くろっちさんです。可愛いでしょ?」  指を隠しながら言う絵美に、言葉は何も言わず文章に話の続きを促した。 「まあ、なんだ。あんな感じで、二次元生命体に三次元的な檻は通用しない。で、二次元には二次元というわけだ」  文章は、持っていた紙を二人の前に置いた。 「神代さん。その指をテーブルに置いてくれる?」  絵美がテーブルに人差し指を付けると、文章はテーブルをリズムよく指で叩いた。  トントン トトト トトトト トト トトトント トン トントントン。  リズムが終わると、絵美の指にいたプリントがするするとテーブルへ降りてくる。 「じゃあ、今から封印するから、よく見ててくれ」  そう言うと、今度はテーブルを三回叩いた。  トントントン。  プリントは絵美の指から文章の方向へと移動し、その間にある紙の下へと消えていく。  そして、次の瞬間、 「成敗!」  気合いとともに文章の平手が紙の上に炸裂した。  テーブルを叩く大きな音とともに紙が浮き上がる。  その紙がテーブルに落ちる前に、文章は縁の部分をつまみ上げた。 「はい、これで捕獲完了」  つまんだ紙をひらひらさせながら文章は言う。  その紙には、再び頭に星を浮かべた棒人間が描かれていた。        ◆ 「くろっちさ~ん」  星をきらめかせながら気絶しているプリントを、絵美が心配そうに見つめている。 「神代さん。縁以外の部分には触れないでくださいね」  文章の注意に頷きを返しつつも、絵美は紙を振ったり息を吹きかけたりしていた。 「あの縁が檻ってこと?」 「ああ」  紙を指さしながら言う言葉に文章は頷いた。 「でも、あれって縁が描いてあるだけでしょ」 「あれはラインで描かれているからな」 「ラインって、線のこと?」 「俺が言ったラインっていうのは、プリントがつくった道具のことだよ。プリントは物の表面を住処にしてるんだが、表面と言っても少し特殊でね」  文章は絵美から紙を受け取ると、それをテーブルにおいて赤いペンを取り出した。  そして、そのペンで気絶中のプリントを塗りつぶし始める。 「文章様、何をするんですか!」 「まあまあ」  慌てる絵美をなだめつつ、文章はプリントの上をさらにぐりぐりと円状に塗りつぶしていった。  それを見ていた言葉と絵美の表情が、次第に驚きへと変わっていく。 「こんな感じで直接触れることができないんだ」  紙の上には赤く塗りつぶされた円と、その上で気絶している黒いプリントの姿があった。 「おい、いい加減に起きろ」  文章がプリントを指で叩く。  すると、プリントの頭上に飛んでいた星が消え、そして周囲を見回すような仕草をすると、赤い円の中で体操を始めた。  その様子を見て、絵美は胸をなで下ろした。 「くろっちさん、よかったです」 「フミ兄、今のは触ったんじゃないの?」  指で紙をトントントンと叩きながら言葉は言った。  しかし、文章はその指の先をさすだけで答えない。 「言葉さん、くろっちさんが……」  紙の上に視線を落としながら言う絵美に、言葉も視線を紙に移す。 「え、なんで?」  そこには、言葉の指先へとスキップで近づいていくプリントがいた。  言葉が不思議そうな顔を文章に向ける。 「振動に反応したんだ」  文章が、もう一度紙の縁を三回叩く。  トントントン。  すると、プリントは一旦止まってから文章の方へと歩き始めた。 「触れることができるのはプリント同士かラインだけなんだが、振動は伝わるんだ。だから、プリントとの意思疎通には振動を使ったりもする」 「くろっちさ~ん」  今度は絵美が紙を指で叩く。  トントントン。  縁に阻まれてきょろきょろしていたプリントは、絵美のほうへと転がっていった。 「こいつは単純な反応しかできないが、プリントによってはモールス信号を理解できるやつもいるし、声を理解できるやつもいる」 「会話ができるの?」 「レアケースだけどな」  文章はペンを回しながら言った。 「えーと、話を戻すが、そんなわけで、プリントを捕まえるにはラインの檻が必要なんだ」 「あれ? じゃあ、触れないプリントをどうやって紙に移したの?」 「確かに、そうですね」  言葉の疑問に声だけで同意しながら、絵美は紙を叩いてくろっちと戯れていた。 「あれも振動を使ったんだ。プリントは、振動を受けたときに別の平面が近くにあると、そっちに移動する性質がある。まあ、近くと言っても接触していないといけないんだが」 「ああ、それで」  言葉が納得したような表情を浮かべた。 「フミ兄がさっきページをいきなり平手打ちしたのも、テーブルにプリントを移すためだったんだ」 「まあ、そういうことだ」  文章は自分の手帳を開くと、絵美がいじっていた紙を手にとって手帳に戻そうとした。 「あの! 文章様?」 「な、何かな? 神代さん」  テーブルに身を乗り出して訊いてくる絵美に、文章はやや押され気味に聞き返す。 「その……、くろっちさんを私にください!」 「え⁉ くろっちって、こいつを?」 「はい! お願いします!」  胸の前で手を組んで言う絵美の目は、うるうると輝いていた。  文章は視線のやり場に困りつつ、腕組みをしながら考え込む。 「絵美、本気なの?」 「もちろんです。一目見たときから、この子しかいないって思ったんです」 「あんたは恋する乙女か……」  言葉は溜息をつきながら文章を見る。 「プリントの存在が公になるのはちょっとな」 「秘密は守りますから! 文章様、お願いします!」  渋る文章に絵美が食い下がる。 「んー、じゃあ、こうしよう」  文章は絵美の前に置いてあった辞典を手に取ると、そこにプリントのいる紙を差し込んだ。  そして、手のひらに辞典を水平に乗せると表紙をリズミカルに叩きだす。  トントン トントン トントントトン トトトトン ト。  そして、勢いよく合掌した。 「これでよし。はい、神代さん」  文章は差し込んだ紙を抜いて辞典を絵美に渡すと、手にした紙を自分の手帳に戻した。 「あ、はい。それで、あの、くろっちさんは……」  よくわからないまま辞典を受け取った絵美が聞き返すと、文章は手帳を懐にしまいながら言った。 「辞典の中を見てくれるか?」  絵美は言われるままに辞典を開くと、ページを捲り始める。そして、その途中で手を止めると目を輝かせた。 「くろっちさん!」  絵美が開いたページには、アイコンのような模様が格子状に並べられていた。  そして、そのアイコン同士の狭い隙間に、その棒人間はいた。        ◆ 「じゃあ、プリントの捕まえ方の説明はしたから、あとは……」 「えー、まだあるの?」 「まだって、これだけじゃクーロンを捕まえられないだろ?」 「手帳のページでクーロンを叩き潰せばいいんでしょ?」  平手で豪快な素振りをしながら、言葉は文章に言う。  文章は溜息をつきながら、言葉の目の前にあるオレンジ色の手帳を指さした。 「それなら言葉、その手帳を開けるか?」 「何よ、いきなり」 「いいから開いてみろ」  手帳を手にとって、言葉は表紙を開こうとした。  しかし、表紙にかけた指が動くことはなかった。 「あれ?」  言葉は指に力を入れて無理矢理にでも手帳を開こうとするが、カバーが少し歪むだけで結果は変わらない。 「何なのよ、これ?」  ついには両手を使ってこじ開けようとし始めた。 「言葉さん、手帳が壊れてしまいますよ」 「そんなこと言ったって……。これ、鉄板でできてるんじゃないの?」 「んなわけあるか」  文章は手帳を渡すようにと言葉に手を伸ばす。  そして、手帳を受け取りながら話を続けた。 「この手帳はサインでロックされているんだ」 「サイン?」 「プリントの特殊能力のことだ。クーロンの電磁波を操る能力もそうだな」 「ふーん。で、どうやってそのロックを外すの?」 「サインの操作には、まず契約が必要なんだ」  そう言った瞬間、言葉の隣で椅子が音を立てた。  音のほうを見れば、そこには絵美が驚愕の表情で立っている。 「契約……ということは、ついに言葉さんが魔法少……」 「いや、変身とかしないから」 「はいはい」  冷静に突っ込む文章に、言葉も絵美を椅子に座らせた。 「じゃあ、その契約をすればいいのね」 「ああ。後で神代さんもするから、よく見てて」 「ええっ! 言葉さんだけでなく私も魔……」 「しつこい!」  言葉のチョップが、立ち上がりかけた絵美の頭部に炸裂した。 「言葉さん、痛いですー」  頭を押さえる絵美を無視して、言葉は文章に先を促す。  文章は苦笑いを浮かべながら手帳を開くと、表紙の裏を複雑なリズムで叩き始めた。  トントン トトト トン トトン トトント トン トトトント トトン。  音が止むと、手帳はTの字を逆さにしたように、表紙だけを残して全てのページが垂直に立ち上がる。  ページを挟んで左右に並んだ表紙裏のプリントに、文章は手のひらを乗せた。 「契約開始」  文章の声とともに、プリントが淡く光り出す。  それを確認すると、文章は手をどけて言葉に言った。 「俺がやったように両方のプリントに手を乗せて」  言葉がプリントに手を乗せる。  光は微かに温かく、少しくすぐったいように思えた。 「それじゃあ、なんか適当にしゃべって」 「え? 適当にって……」 「何でもいいから。早くしないと認証時間が終わっちゃうぞ」 「そんなこと急に言われたって……。ええっと、わたしの名前は空野言葉。軌条学園高等部二年。電子出版部所属。趣味は読書とブログで、えーと、好きな食べ物はチョコレートです!」 「オーケー。契約完了だ。手をどけていいぞ」  言葉は光を失ったプリントから手をどけると一息ついた。 「言葉」 「な、何⁉」 「なんだ、緊張したのか?」 「ち、違うわよ!」 「まあいい。ちょっと左のプリントを一回ノックしてくれるか?」  膨れつつも、言葉は指でプリントを一度叩いた。  すると、立ち上がっていたページは支えを失ったように左右へと崩れていく。 「よし、これで言葉は大丈夫だな。それじゃあ、次は神代さん、いいかな?」 「はい、文章様。よろしくお願いします」  文章は十字の描かれた表紙を開くと、またリズムを刻み始めた。        ◆ 「それじゃ、クーロンを捕まえに行きましょ?」  言葉は手帳を手にして言った。 「そうだな。あとは実際に使いながらでいいか」 「では文章様、まずはどうしますか? やはり学校に行くんですか?」  絵美の質問に、文章は自分の手帳を広げて言った。 「いや、大体の位置はこの手帳でわかるから、それを見てからにしよう」  手帳の最初のほうを捲れば、そこには黒一色で描かれた地図があった。  言葉も自分の手帳を開いてみる。  それには、今いるロッジを中心とした地図が描かれていた。  そして、その地図の中心には矢印が描かれている。 「フミ兄、この地図でどうするの?」 「手紙はあるか?」 「あるけど……」  言葉は文章に手紙を渡す。 「この手紙にあるクーロンの痕跡を使おう」  何も書かれていない手紙を広げると、文章はそれを地図の上に置いて指で叩いた。  トントン。  すると地図の上部が光り始め、光は下へと手紙をなぞるようにして移動していく。  ページの端まで行って光が消えると、文章は手紙を言葉へと返した。 「今やったようにできるか?」  言葉は頷くと、文章と同じように手紙を地図に乗せて指で二回叩く。  そして光の消えた地図から手紙をどけると、そこには矢印のほかに丸印が一つあった。 「もしかして、ここにクーロンがいるってこと?」 「そうなんだが、よりにもよってこことは……」  地図を指さしながら言う言葉に、文章は憂うつな顔をした。 「ここは……、図書館みたいですね」  手帳をのぞき込んで絵美が言う。 「フミ兄、ご愁傷様」 「うるさい。さっさと行くぞ」  哀れみの目を向ける言葉を無視して、文章はさっさと出かける準備を始めた。        ◆ 「ここね」 「そうですね」  言葉と絵美は図書館の前に来ていた。  地図上の表示は、変わらずクーロンが図書館にいることを示している。  図書館は緑に囲まれた二階建てで、ほとんどがガラス張りの建物だった。 「外は寒いし、早く行きましょ」  言葉は、後ろでうなだれていた文章に声をかける。 「じゃあ、俺は向かいの公園で待ってるから。あんまり目立つなよ」  文章は方向転換をして歩き始めた。 「ちょっと待ちなさい」 「なんだよ?」  襟首を掴まれた文章は、振り向きながら面倒臭そうな視線を言葉に向ける。 「待つなら中のカフェでもいいでしょ。フミ兄も来るのよ」 「こんな電波だらけの場所に入れるか!」  文章は図書館を睨んで言った。 「中で何かあったらどうするのよ?」 「そのときは連絡をくれ」 「連絡してくれって、フミ兄、モバイル持ってきたの?」 「はあ? そんなわけないだろ」  即答する文章の首を背後から締め付けて言葉は言った。 「何、偉そうに言ってるのよ!」 「う、く、くるし……」 「か弱い女性が危険にさらされるかもしれないってのに、こいつはー!」 「ちょっと言葉さん⁉」  前後に揺さぶられて目を回し始めた文章を見て、絵美が慌てて止めにかかる。 「大丈夫ですか? 文章様」 「ああ、大丈夫。大分重かったが……」 「なんか言った⁉」  背後に黒い炎を揺らめかせながら睨みつけてくる言葉に、文章は後ずさりながら顔を勢いよく左右に振った。 「まったく。ほら、フミ兄も行くわよ」  言葉が文章を見下ろしながら呆れて言う。 「いや、だから俺は……」 「往生際が悪いわね」  低い声で俯きながらゆっくりと迫り来る言葉に、文章は慌てて言った。 「待て待て! モバイルがなくても大丈夫だから!」 「何が大丈夫なのよ?」  文章は手帳を取り出して開くと、白紙のページを左右半分に折った。  そして、縦長になったページに筆ペンのようなもので模様を描き始める。  模様はS字のような形で、何重もの渦がその両端には描かれていた。 「神代さん、辞典を出して三十七ページを開いてくれるか?」  絵美は十字の描かれた辞典を取り出すと、ノンブルを確認しながらページを捲っていく。 「ここですか?」  言われたページを開いて見せる絵美に、文章は頷いた。 「そのページの上から二番目、左から三番目のやつをリリースしてくれるか?」 「えーと、上から二番目の左から三番目……」  並んだ円や四角の中から目当ての模様を見つけると、絵美は指で軽く二回叩いた。  しかし、特に目立った変化は起こらない。 「文章様、リリースは二回ノックでしたよね?」 「ああ。神代さん、大丈夫だから。自分の指を見てみて」  自分の指を見て、絵美はその変化に気づいた。 「あら。これは……」  そこには辞典で触れた模様と同じものが描かれていた。 「その指で、この模様に触れてくれ」 「あ、はい」  絵美が模様に触れると、黒一色だった模様の表面を虹色の光が波のように流れた。  そして、絵美の指からは模様が消えていた。 「文章様、このプリントは?」 「リンクと言って、ライン同士をシンクロさせることができるプリントだ」  光の収まったページを手帳から外しつつ文章は言う。  そして、折り畳まれたままのページを折り目に沿って半分に切ると、文章はその片方を言葉に渡した。 「で、これは何?」  渡された紙には、文章の持っている紙片と同じ模様が描かれている。 「これで通話できるから」 「これで?」  疑う言葉に、文章は紙片を右耳の下から顎にかけて貼り付けた。 「こうやって使うんだ」  ヘッドセットのマイクのように指で押さえて文章は言う。  言葉も同じようにすると、文章が口を動かした。 『聞こえるか?』  耳の内側から響くような声が聞こえた。  言葉は文章から五メートルほど離れると、後ろを向いて小さな声で話してみる。 「フミ兄、聞こえる?」 『ああ、よく聞こえるぞ』 「これ、どうなってるの?」 『ライン同士をシンクロさせて、振動を共有してるんだ』 「ふーん。あ、そうだ。絵美に代わってくれる?」  紙の向こうで絵美が「私ですか?」と言っているのが微かに聞こえた。 『もしもし、言葉さん。代わりましたけど?』 「どう? 温もりは?」 『…………』  無言になった絵美のほうを見てみれば、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。 「今、確認したでしょ?」 『な、何を言ってるんですか! 文章様の、ぬ、温もり、なんて……』 「あっれー? わたしは絵美のことだから、てっきり紙のことだと思ったんだけど」  ハッと自分のほうを見る絵美に、言葉はにやりと笑って視線を返す。 『言葉さんのいじわる! もう知りません!』  そう言うと、絵美は紙片を文章に返してそっぽを向いてしまった。  その横で紙片を受け取った文章は、絵美と言葉を交互に見て首をかしげた。        ◆ 「じゃあ、何かあったらそれで呼んでくれ。それから神代さん……」 「はい。なんでしょうか? 文章様」  文章は、絵美の目を正面から見つめると、その両肩に手を置いた。 「言葉を頼みますね」  それだけを言うと、文章は向かいの喫茶店へと歩いて行った。 「今のどういう意味?」  夢見心地でいる絵美の横で、言葉は離れていく文章の背中を睨みつけた。 「さあ、行きましょう。言葉さん」  そんな言葉の手を掴んで、絵美は図書館へと向かい始める。  その嬉しそうな表情に、言葉は溜息をつくと気持ちを切り替えて歩き出した。 「しょうがないわね。さっさと捕まえて帰りましょ」  二人は図書館へと入っていく。        ◆  ガラス張りの自動ドアを抜けると、エントランスは吹き抜けになっていた。  天窓から入る明るい光の下には円形の広間があり、そこにはHARによる案内が幾つも浮かんでいる。  広間の中心には二階への螺旋階段とエレベーターがあり、そこを中心に建物の左手前と右奥にも同じように階段とエレベーターがあった。  左側は全面ガラス張りのカフェスペースになっていて、右側にはパーティションで区切られた読書スペースが設けられている。  それ以外にも椅子やテーブルが所々に置かれていて、利用者は思い思いの場所でHARによる読書を楽しんでいた。 「どこを探すんですか?」 「そうね」  言葉は手帳を見るが、地図には四角い輪郭の中に矢印と丸印があるだけだった。 「まずは、ここのフロアマップを見ましょ」  周囲を見回して言葉は右側のブーススペースを指さした。 「あそこで調べてみましょ」  絵美は頷いて言葉の後に続く。 「昔の図書館には本棚があったんですよね」 「何よ、いきなり」  周囲を見回しながら言う絵美に、言葉は余り興味なさそうに答えた。 「いえ、ここも昔は書道様の書庫のようだったのかなと」 「気味の悪いこと言わないでよね」  地下に広がる深い闇とそこに蠢く黒いものを思い出して、言葉の顔が青ざめる。 「あれは書庫じゃなくて魔窟よ」  鳥肌の立った腕をさすりながら、言葉は頭を振ってそのイメージを追い払う。 「そうですか? くろっちさんの仲間がいる素敵なところだと思いますけど」  楽しそうに言う絵美を横目に、言葉は空いていたブースの椅子に腰掛けた。  少しぐったりした言葉の顔をのぞき込みながら、絵美が声をかける。 「何か飲み物でも買ってきましょうか?」 「じゃあ、アイチョコお願い」 「冬なのにアイスチョコレートですか⁉」 「うん。お願い」  驚く絵美に言葉は短く答えると、目の前のHAR端末に話しかけた。 「ここのフロアマップを」        ◆ 「甘くておいしー」  アイスチョコレートドリンクを飲みながら言葉は一息ついた。 「こんな寒いときに、よく飲めますね」 「一仕事した後だしね。それに、寒いときに暖かい室内で冷たいものを飲む。これが幸せなのよ」  紅茶を上品に飲む絵美の隣で、言葉は「つめたーい」と気持ちよさそうにグラスを額に当てている。 「一仕事って……。いきなり走って行くから驚きましたよ」 「ごめんごめん。でも、意外とすぐに確認できるところだったから我慢できなくて」  絵美が飲み物を持って席に戻ってくると、言葉は待ちきれないとばかりに、絵美の手をつかんでエレベーターの裏手にある広告スペースへと走り出した。  そして、地下一階から三階のすべてのスペースを探してみたが収穫はなく、今に至る。 「まったく、言葉さんはせっかちなんですから……。それにしても、トカゲのように壁に張り付いてまで見る必要はなかったのではありませんか? 周りの視線を一身に集めていましたよ?」 「え? そう?」 「そうですよ。私、恥ずかしかったんですから」  絵美は赤い顔を背けながら、頬を膨らませて言った。 「アイチョコが溶ける前に戻ってこられたんだから、気にしない気にしない」 「そういう問題ではありません!」  思わず声を大きくして言う絵美に、言葉が唇の近くで人差し指を立てる。  絵美はハッとして周囲を見回すが、パーティションで遮られて様子を窺うことはできなかった。  しかし、さっきまで微かに聞こえていたはずの周囲の話し声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。  ますます頬を膨らませる絵美を横目に、言葉は宙に浮かぶHARディスプレイを見て溜息をついた。 「でも、困ったわね」 「そうですね」  絵美は、こちらを見ることなく不機嫌そうに言う。  言葉は苦笑を浮かべながらも、HARディスプレイに表示されたフロアマップを見た。  そこには自分たちのいる位置が赤い丸で示されている。 「ここって多分、部外者以外立ち入り禁止よね」 「中央サーバールームって書いてありますからね」  絵美は相変わらずこちらを見ていないが、言葉は気にせず話を続けた。 「だよねー」  言葉は表示されているHARマップをつまむと、広げてあった手帳の上に重ねる。  マップの縮尺と方向を指で変えて、手帳にある図書館に合わせてみると、手帳に描かれた丸印はマップの中央部分やや上方に位置していた。 「二階も一階もエレベータの裏でしょ」  言葉は地上二階、地下三階の五層で表示されたマップを、上から順に手帳の上に落としていく。 「地下一階もそうですね」 「で、地下二階がサーバールームで地下三階が機械室と」 「地下一階は視聴覚ルームや会議室関係ですから入れましたけど、それより下は難しいですね」  いつしか、絵美も言葉の隣でマップを見ながら話し始める。 「エレベーターの裏には広告があるだけで、特に何もなかったし」 「昔ならポスターも紙だったんですけどね。今は全てHARですから、隠れるところなんてありませんしね」  二人はマップを見ながら黙り込んでしまう。  クーロンを示す印も、特に動くような気配を見せることはなかった。  ドリンクの氷が溶けて、澄んだ音を響かせる。 「眠い……」 「ちょっと言葉さん?」  マップから声のほうへと振り向けば、そこにはよだれを垂らして船をこぐ言葉の姿があった。        ◆ 「しょうがない。フミ兄に連絡しましょ」  額を赤くしながら、言葉は拳を握りしめて決意を口にした。 「何がしょうがないんですか。盛大におでこをテーブルにぶつけておいて」 「うるさいわね」  文句を言いながら、言葉は紙片を取り出す。 「まったく、言葉さんはせっかちな上に飽きやすいんですから」  濡らしたハンカチを言葉のおでこに当てながら、絵美は困ったような口調で言った。 「もしもし。フミ兄、聞こえる?」 『どうした?』  紙片で話しかけると、すぐに文章の声が返ってくる。 「クーロンが関係者以外立ち入り禁止の区画にいるみたいなんだけど」 『それは、少し困ったな』 「少し?」 『あ、いや……』 「つまり、何か方法があるのね?」  紙片の向こうで言い淀む文章に、言葉は確信を持ってそう聞き返した。 『まあ、ないこともない』 「じゃあ、教えてよ」 『教えるのは構わないが、できるのか?』  心配そうな声で言う文章に、言葉は胸を張って言い返す。 「できるかですって? わたしを誰だと思ってるの?」 『それなら、まあやってみるか』  少しの沈黙の後、文章は絵美に代わるように言葉に言ってきた。 「はい。神代です」 『神代さん。今から言うプリントのサインを言葉にかけてくれるか? 使い方はリンクと同じだから』 「はい。わかりました」  文章は絵美にページと場所を教えると、再び言葉に代わるようにと絵美にお願いする。 「何をするの?」  言葉の問いに、文章は事も無げに答えた。 『今からおまえを透明にする』 「は?」 『いや、だから、おまえを透明にして扉とかの隙間を通れるようにするから』  言葉が沈黙する。 「まずはプレンからですね」  辞典を捲っていた絵美がページをノックして、その指を言葉に近づける。 「ちょ、ちょっと待って!」  避けようとする言葉だったが、狭いブースでは思うように体を動かせない。 「えいっ!」  絵美の指が言葉のおでこに触れる。  次の瞬間、言葉の体は風船から空気が抜けるように薄くなり、ついには模造紙のようになってしまった。  言葉は自分の両手や体をしばらく見つめると、青ざめた顔で絵美のほうを向いて言った。 「絵美、わたしに何をしたの⁉」 「見たとおり、厚さをなくしました。これで、どんな隙間でも通れるみたいです」  絵美の説明に、言葉の表情は白紙のようになる。 「な、ななな……」  両手を見下ろしたまま、言葉は震える声で何かを叫ぼうとした。  しかし、それは突然の異変によって遮られた。  HARディスプレイの表示が、フロアマップから地図へと変わったのだ。  しかも、それは目の前のディスプレイだけではない。  周囲の広告や館内情報を表示していたものまで、全てが同じ地図を表示していた。 「どうなってるの?」  言葉は絵美を見て言うが、絵美も状況がわからないといった様子で周りを見回している。  ディスプレイに表示されているのは図書館周辺、それも広範囲に及ぶ地図のようだった。  地図には赤い点がいくつか表示され、それは次第に増えていく。 「何が起きているの?」  誰もが赤く塗りつぶされていく地図に目を向ける中で、言葉の疑問に答える声はなかった。  数カ所だった点が加速度的に増えていく。 「言葉さん……」  絵美も不安そうに地図を見つめている。  そして、地図が赤い点で埋め尽くされる直前、図書館は突然の暗闇に包まれた。        ◆ 「大丈夫か? 何があった?」  図書館から人が次々と出てくる中、言葉と絵美は駆けつけてきた文章と合流していた。 「文章様、図書館のサーバーが急にダウンしてしまって……。それで、あの、私は大丈夫なのですが……」  絵美の視線の先を見れば、そこには下を向いてぐったりとした言葉の姿があった。 「どうしたんだ?」 「それが、その……」  そこまで言うと、絵美も下を向いて黙ってしまう。 「おい、言葉。何があったんだ」 「踏まれたのよ」  言葉は下を向いたまま、つぶやくように言った。 「踏まれた? 誰に?」 「あの……」  言葉への質問に絵美が口を開いた。  そちらへ視線を向けると、絵美が小さく手を上げながら「私」と小声で言った。 「は? 神代さんに踏まれたぐらいでこんなに凹んでるのか?」 「踏まれたぐらいで⁉」  睨みつけてきた言葉を見れば、顔のど真ん中にくっきりと足跡がついている。 「おまえ、それ……」 「急に暗くなったかと思ったら絵美はわたしを踏んで転んじゃうし、それで絵美はパニックになっちゃうしで、気がついたらこんなことになってたんですけど⁉」  よく見ると、顔だけでなく体中のあらゆるところに足跡がついていた。 「それで、どうやったら全身踏まれるんだ?」 「フミ兄が、わたしをペラペラにしたからでしょ⁉」 「あー」  文章の脳裏には、バナナの皮のように絵美に踏まれた言葉の姿が浮かんでいた。 「言葉さん、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」  絵美が何度も何度も言葉に頭を下げる。 「あー、絵美はいいのよ。暗いの苦手なんだし、フミ兄が元凶なんだから」 「あれは、おまえができるって言うから……」  睨んできた言葉に、文章は黙って視線をそらした。  そして、言葉は文章から絵美に顔を向けると、何かを企むような顔で言う。 「ねえ、絵美。お腹空かない?」 「え? そうですね、そう言われれば……」 「でしょ。じゃあ、あの喫茶店でお昼にしましょ。もちろんフミ兄のおごりで」  何か言いたげな文章を置き去りにして、言葉は絵美を連れて歩きだした。        ◆ 「絵美の辞典って便利よねー」  自分の服を見ながら言葉は感心していた。  さっきまで足跡だらけだった服はクリーニングでもしたかのように汚れ一つなく、顔にあった足跡もきれいに消えている。 「遺跡調査だと汚れるのは当たり前だからな。いちいちクリーニングに出す時間もないし、そこらへんの使えそうなものは大体揃ってるんだ」  文章は、外を見ながら無愛想に言った。 「そうなんだ。ねえ、フミ兄、これってもう一冊くらいないの?」 「あるか。世界に十冊もない貴重なものなんだぞ。それに、一万近くもあるプリントを覚えられるのか?」 「一万もいるの⁉ これに⁉」  言葉は辞典の中身を想像して頭痛を覚えた。 「絵美、よろしくね!」 「あ、はい」  親指を立てて清々しい笑顔を向けてくる言葉に、絵美は苦笑いを浮かべるしかなかった。 「それよりも言葉さん、そろそろ何か頼みませんか?」 「そうね。フミ兄は何にする?」  宙に浮かんだメニューを見せながら聞いていくる言葉に、文章は少し顔をしかめると、ろくにメニューを見ることなく顔をそらす。 「俺はコーヒーだけでいいから、そんなにメニューを近づけるな。頭が痛くなる」 「えー、コーヒーだけなの?」 「なんだよ。いいだろ?」  そう言う文章に、言葉は少し困ったような表情を絵美に向けた。  絵美も同じような表情で言葉と数回視線を交わす。  そして、言葉が溜息をついて言った。 「じゃあ、フミ兄はカルボナーラの大盛りね」 「はあ⁉ 俺はコーヒーだけって……」 「い・い・か・ら!」  足を踏んで文章を黙らせると、言葉はさっさと文章の料理をメニューから選んで注文する。 「じゃあ、わたしはチキンベーグルサンドとレモンティーにしようかな。絵美は何にする? 遠慮はいらないわよ。フミ兄のおごりなんだし」  笑顔で勧めてくる言葉に、絵美はちらりと文章のほうを見る。 「ああ、神代さんは好きなものを頼んで」  真っ直ぐに見つめてそう言う文章に、絵美は俯きながらも注文を言葉に伝えた。 「それでは、私はサーモンベーグルサンドとミルクティーでお願いします」  言葉は文章を睨みつけながらメニューにオーダーを入力していく。 「あのー、言葉さん、この足をどけてくれますかね?」  メニューで注文をしている言葉に、文章は抑えた声で言った。 「あら、鈍感なのに気がついたんだ」 「誰が鈍感だ」  言葉は足に力を込めながら、見下すような視線を文章に向けて言った。 「女の子との食事でコーヒーしか頼まないような、ケチな男のことよ」        ◆ 「近くにクーロンはいないみたいね」  隣で死んだカエルのように仰向けになっている文章を無視して、言葉は手帳を見ていた。 「文章様、大丈夫ですか?」  何かうわごとを言っている文章を、絵美が心配そうに見つめている。 「あれの、どこが大盛りなんだ」  文章が関取のような太い声で感想を言った。 「まさか、ナイフで輪切りにして食べるスパゲッティが出てくるとは思わなかったのよ」  文章の抗議めいた視線を感じながら、言葉は少しばつの悪そうな顔をして答えた。 「巨大化とか、あれは何か? どこかの怪人か?」 「まあ、いいじゃない。見事片付けたんだし」  言葉の視線の先には、空になった大皿がある。 「まあ、俺にかかれば、どんな強敵だろうと……」 「それよりもフミ兄、あれもクーロンの仕業だと思う?」  話を遮られて少しむっとした文章だったが、言葉の真面目な表情に一息つくと、席に座り直して質問に答える。 「そうだろうな。学校でも電子機器に影響を与えていたし、そう考えるのが自然だ。ただ、今回のはいたずらの範疇を超えてる。やっぱり、早く捕まえないといけないかもな」 「捕まえるっていっても地図に反応はもうないし、どうするのよ?」 「手帳の地図は有効半径が数キロだからな。図書館で、何か手がかりなるようなものはなかったのか?」  文章の問い掛けに、言葉は腕を組んで考え込む。 「手がかりといっても、それを探している途中で逃げられたようなものだし……」  答えの出そうもない言葉に、文章はふと思いついた疑問を口にした。 「そういえば、なんでサーバーはダウンしたんだ?」  その質問に、言葉と絵美はアッと顔を見合わせた。 「あれをクーロンがやってたとしたら……」 「そうですよ。だとしたら何かの手がかりになるかも……」  言葉と絵美は、サーバーがダウンする前に起きた出来事を文章に説明した。  話を聞き終えると、文章は目を閉じて考え始める。 「そんなことがあったのか。それがクーロンの仕業だとしたら、やつは地図で何をしていたんだ?」 「あれは、何かを探しているようでした」  その声に、文章は目を開けて絵美を見る。 「探している?」  絵美は、文章の疑問に頷くと話を続けた。 「そうです。地図に印を付けていましたから」 「でも、結局全部真っ赤になっちゃったし……。もしかしたら、ただ塗りつぶしていただけかも」  言葉の推測に、絵美は首を横に振る。 「違うと思います」  そうはっきりと言う絵美に、言葉と文章は視線を向けて先を促す。 「サーバーが落ちる直前まで、ある部分だけは赤い点がまったくありませんでしたから」 「間に合わなかっただけじゃないの?」 「いえ、赤い点に偏りはないようでしたから、そこだけ一つも点がないというのは、逆に不自然だと思います」  絵美の話に文章は頷くと、彼女にペンを渡して尋ねた。 「それが、どこだかわかるか?」 「たしか、このあたりだったと思います」  絵美が地図に楕円を描く。 「フミ兄、ここ、どこだかわかる?」 「ああ、ここはよく知ってる。ここは、アナ……」  そこまで言って、文章は急に地図を見つめたまま黙り込んでしまった。 「穴?」 「穴ですか?」  言葉と絵美の疑問をよそに、文章は立ち上がると一人納得したように口を開いた。 「そうか……。そういうことだったのか!」