【第二章】  小さな天窓から光が降りてくる。  それは白く穏やかな光で、ベッドに広げられた艶やかな純白の布を照らしていた。  布は丸みを帯びた少女の体を包み込み、大きな膨らみから柔らかな曲線を描いてシルエットを浮かび上がらせる。  少女――上瀬・愛は、天窓の向こうにある月を見ながら、微かに唇だけを動かした。 (母様)  頬を、一粒の月明かりが流れていく。  その雫を、無骨な指がすくい取った。 「愛、まだ怖いのかい?」  耳元で聞こえる優しい父の声に、愛は小さく首を横に振る。  すると、大きな手のひらが自分の胸を包み込んだ。 「ん」 「大丈夫。私がついている」  そう言って、父の手がゆっくりと動き始める。  それは優しく撫でながらも、こねるように揉みしだく動きだった。  胸の形が大きく歪み、そして解放されては再び別の形へと変えられる。  その繰り返しに、愛は呼吸の自由を徐々に奪われていった。 「はっ、んん」  声が大きくならないように、短く息を吐いては口をつぐむ。  しばらくすると、少し汗ばんで吸い付くようになった胸から大きな手がゆっくりと離れていく。  しかし、それは名残惜しそうに指先だけを残すと、膨らみの先端をわざと避けるようにして、その周囲だけを優しくも焦らすように撫で始めた。  指で出来た太い筆が、八の字を描いて二つの膨らみの間を遊ぶように行き来する。  くすぐったい感覚に、愛は目と口をぎゅっと閉じて耐えた。  しかし、意識は胸の上を無邪気に這い回る指先を追ってしまう。 「ん、やぁ」  息を吐き出すたびに恥ずかしい声も漏れてしまい、愛は羞恥にまつげを震わせるが、感覚を無視しようとすればするほど、その感覚を意識して逆に肌は敏感になってしまう。  頭を痺れさせるような刺激に意識を朦朧とさせながら、愛は上下する胸の動きと肌を伝う感覚だけを、ただ無防備に受け入れていた。  父の筆は淫靡なパステルへと形を変え、玉の汗をその先端に触れさせながら狭い柔肉の谷間をなぞって下へとなだらかな線を描き始める。  それは愛の体を味わうように、ゆっくりとゆっくりと下りていく。  軽く触れるだけの邪な先端は決して止まることなく、けれど確実に、熱の帯びた曲線を肌に刻んでいく。 「あぁあ、ん。ふぅ、はぁあ」  我慢出来ずに漏れ出た艶めかしい声に、愛は自分の耳が先まで一気に熱くなるのを自覚した。  緊張と恥ずかしさで呼吸がまったく落ち着かない。  それでも体を這う熱は下へと伸びていき、お腹の小さな凹みに差し掛かると、踊るように輪郭を一回だけなぞった。  そして、熱はさらに下へ下へと向かって迷うことなく進み、愛の感覚を否応なくその先へと集中させて溢れさせる。 「とぉさ……」  父を呼ぶ言葉でさえも、体の奥底からわき起こるざわつくような熱に邪魔されて、うまく声に出来ない。  もはや自分の意思とは関係なく暴れ回る鼓動に、愛は急に恐怖を覚えて助けを求めるように薄く目を開いた。  揺らめく世界の中で愛が目にしたのは、月明かりを背にしてこちらを見下ろす一人の男だった。  もう一度その人の名を呼ぼうと、愛は小さな唇を動かした。  しかし、そんなことは無駄だとばかりに、その男は優しい眼差しで顔を近づけてきて、 「んうん」  声が出る前に自分の唇をふさいでしまう。  言葉も意識も、何もかもが溶けて意味をなさなくなる。  虚ろな瞳を向ける愛をまっすぐ見つめて、男は穏やかな声で言った。 「大丈夫。おまえは、今度こそ私が守る。だから……」  愛の頬に触れながら、男は彼女の瞳、その内側を愛おしそうに見つめていた。 「だから、ずっとそばにいてくれ」  自分には決して届かない言葉。それでも愛は、それに答えてあげたいと思った。  だから愛は、目尻に大粒の涙を浮かべながらも精一杯微笑んだ。  そして、愛しい人の温もりが残る唇を開いて言葉を紡ぐ。その人が望む言葉を。 「はい。登さん」  恋愛ドラマを見ているようねと、意識の片隅で冷めた自分が言う。  それでも愛は、今自分を必要としてくれる男の胸へとその身を委ねた。        ◆  昇り始めたばかりの太陽が、街を少しずつ照らしていく。  そんな中、三階建ての小さなビルの屋上に阿戸部とキリエはいた。  阿戸部があんパン片手に、目の前で双眼鏡をのぞいているキリエに話しかける。 「なあ、キリエ」 「何だ?」  キリエは振り向くことなく言葉を返す。  阿戸部は、あんパンを一口頬張ると話を続けた。 「ほんなに、あのほんなはね持ってんの?」 「貴様は……。最低限のマナーも知らないとはチンパンジー以下だな」  パンを頬張る阿戸部を蔑んだ目で見ると、キリエはその手に残った半分のパンを奪い取った。  そして、特に文句も言わず不満そうな顔を向けてくる阿戸部に、キリエは手にした牛乳瓶を見せつけて言う。 「あんパンには牛乳! これが張り込みのマナーであろうが!」  そう言ってキリエはあんパンにかじりつくと、喉を鳴らして牛乳をパンと一緒に胃の中へと流し込んだ。 「うむ! この喉越し、実に美味!」 「はいはい」  阿戸部はポケットからハンカチを取り出すと、胸を張って言うキリエの可愛らしい白ひげを素早く拭った。 「な、何をする! 高貴なわらわの体に勝手に触れるなと何度も言っておろうが!」  顔を赤くして言うキリエを無視して、阿戸部はハンカチをしまいながら手すりの向こうに広がる住宅街を見て言った。 「そんなことより、あの女からそんなに礼金もらいたいのか?」 「は? 礼金だと?」  あんパンを食べようとしていたキリエが、その手を止めて聞き返す。 「助けた礼金。違うのか?」  阿戸部の不思議そうな顔に、キリエはため息をついた。 「他人にたかるなど、わらわがするわけなかろう」 「金じゃないとすると、体か?」 「それこそないわ!」  大声で怒鳴りつけたキリエだったが、直後に体がふらついて前のめりになる。 「おい、大丈夫か?」  それを支えようとして阿戸部が手を伸ばした。  しかし、キリエは足を一歩踏み出して踏み留まると、その手を振り払う。 「触るな。ちょっとめまいがしただけだ。まったく、こんな朝から大声を出させおって……」  キリエは目を閉じて深呼吸をすると、阿戸部を見て言った。 「少し、確かめたいことがあるだけだ」  そしてキリエは住宅街のほうへと視線を向けた。        ◆  人々が通勤通学で動き始める時間帯になっても、阿戸部とキリエは上瀬・愛の自宅をのぞいていた。 「目玉焼き。うまそうだな」 「わらわはカリカリベーコンのほうが好きだ」  双眼鏡をのぞきながら言う阿戸部に、キリエも双眼鏡をのぞきながら答える。  一階のリビングダイニングには制服姿の愛がいる。彼女の前には、目玉焼きとカリカリベーコン、そしてキツネ色に焼けたトーストとサラダが並べられていた。  その向かいでは、エプロン姿の登が自分の皿にベーコンを盛りつけている。  用意が整うと、二人は一緒に朝食を食べ始めた。  愛が楽しそうに登へ話しかけると、登は優しい瞳で愛を見つめながら静かにその話を聞いていた。そして二言三言、言葉を返す。  その言葉に愛は笑顔を浮かべ、それに登も微笑み返した。 「何だ、あの空気は?」  キリエが、あからさまに訝しんで言う。 「楽しそうだな」 「貴様の目は節穴以下か」  楽しそうに笑う愛を見ながら、キリエは阿戸部の感想を一蹴した。  学校と家庭の余りの温度差に、得体の知れない気持ち悪さがキリエを襲う。  そんなキリエをよそに、朝食を終えた二人は食器を片付け始める。  登は食器を持ってリビングダイニングの奥へと向かい、そして愛はリビングダイニング横の扉を開けて出ていった。 「誰もいなくなっちまったな」  角度的に奥を見ることも出来ず、無人のリビングダイニングを十数分見ていると、愛が戻ってくる。  そして椅子に置いてあった鞄を手にとると、リビングダイニングの奥へと体を向けた。  すると登が近くに寄ってきて愛の前に立ち、愛はスカートを翻しながら体を回す。  その様子に登は満足げに頷くと、愛の額に手を当てて彼女の前髪を上げた。  それに応えるように、愛は顔を上げて少し背伸びをした。  そして次の瞬間、キリエは双眼鏡の向こうで繰り広げられた光景に絶句した。 「な……」「おー、キスしてるぞ。あれがデコチューってやつか」  阿戸部は楽しそうに好奇心丸出しで状況を口にする。 「あんたは見ちゃダメ!」  キリエが真っ赤な顔で阿戸部の双眼鏡を取り上げた。 「なんだよ。別におまえのじゃないだろ?」 「そういう問題じゃないから!」  つまらなそうに言う阿戸部に、キリエは顔を背けて言った。  阿戸部は少し考え込むと、「じゃあ」と前置きしてからキリエの頬に手を添えて自分のほうへと振り向かせる。  目を丸くするキリエを至近距離で見つめながら、阿戸部は挨拶でもするような気軽さで言ってきた。 「おまえにデコチューする」 「!!!!!!!」  反射的に、キリエは黒兎から取り出したアサルトライフルを連射した。        ◆  黒い二人組がいなくなったビルの屋上を眺めていた男は、口の端を少しだけ上げると白い中折れ帽を目深にかぶった。  そして丁字路の角から出ると、帽子に付いた白い梟の羽根と純白の長髪をなびかせて歩き出す。  しばらく歩いて白い直方体が印象的な家にたどり着くと、男は門の横にあるインターホンを鳴らした。  すると、すぐに玄関を開けて登が出てくる。  登は男を笑顔で出迎えると、軽く挨拶を交わして中へと招き入れる。  男は、もう一度だけビルのほうを見上げると、家の中へと入っていった。        ◆ 「あいつ、面白い奴だな」  廊下を歩く上瀬・愛を双眼鏡でのぞきながら、学校の屋上で阿戸部は独りごちた。  彼女の行く先々では生徒達が、目線を合わさないように急ぎ足で離れていったり、または立ち止まってまとわりつくような視線を向けたり、またある者は一定の距離を保ってシャッターチャンスを窺っていたりと忙しい。 「阿戸部、気づかれるなよ?」  フェンスの前で堂々と双眼鏡を構える阿戸部に、キリエは大して気にしたふうもなく言った。  今、キリエの目の前には五人の男子生徒が正座していた。  いずれも愛に乱暴しようとして、阿戸部に半殺しにされた者たちだった。 「最後にもう一度言うが、わらわの命令には絶対服従だ。逆らう者は、勉強以外何も好きになれない体にしてやるから覚悟しておけ! もちろん女もだ! わかったな?」 「「「「「はい! 我らが女王陛下!」」」」」  男子生徒達は乱れることなく同時に返事をする。  しかし、その目は渦を巻いていて、どの生徒も焦点が定まっていなかった。 「よし。各自、機材を持って作戦に備えよ。作戦開始は放課後だ」  男子生徒達はキリエの前に列を作ると、黒兎の腹から取り出されたアンテナの付いた手のひらよりも小さな箱や、指先よりも小さなレンズの付いたボタンのようなものなどを受け取っていく。  全員が受け取ると、キリエは横一列に並んだ彼らに傘の先を向けて言った。 「くれぐれも機材が見つかるようなへまはするなよ。では、解散!」  その声に、男子生徒達は列を乱すことなく屋上から去っていく。 「終わったのか?」 「ああ」  阿戸部の興味なさそうな質問に、キリエも無表情に淡々と答えた。        ◆  学校から帰宅して私服に着替え終わった愛は、ちょうど鳴った玄関のインターホンに、こんな時間に誰かなと思いつつ玄関へと向かった。  玄関横にあるインターホンのディスプレイを見てみれば、そこには自分に乱暴しようとした男子達の姿があった。 「…………」  もう一度インターホンが鳴らされる。  愛は出るべきか迷った。  彼らは制服姿で、それぞれに花束を持っている。  恐らく先日のことを謝りに来たのだろう。  目の前で、もう一度インターホンが鳴らされる。 (早く帰ってもらわないと)  二階で仕事をしている父親を思って、愛は焦った。  ディスプレイには、直立不応で微動だにしない彼らの姿が映っている。  どうやら彼らに帰る気はないらしい。  愛は嫌々ながらも、仕方なくインターホンの通話ボタンを押した。 「はい。どちら様ですか?」 『アノ、ボクタチ、カミセ・アイサンノ、ドウキュウセイナノデスガ……』  抑揚のない口調で先頭にいる男子生徒は言った。  愛は少し考えると、 「えーと、愛は今外出中で……」  とぼけてみることにした。 『サキホド、イエニハイラレルノヲミタノデスガ……』  しかし、愛の作戦はあっけなく砕け散った。 「あの、えっと……」  愛が言葉に詰まっていると、背後から階段を降りてくる足音が聞こえてくる。  振り返れば、そこには父親の姿があった。 「どうした、愛。お客さんか?」 「え、うん。学校の同級生が……」  たどたどしく答える愛に登は少し首をかしげると、そばに来てディスプレイをのぞいた。  そして登はディスプレイに目を向けたまま、少し強い口調で愛に尋ねた。 「愛、彼らは何の用で来たのかな?」 「えっと、あの……」  口ごもる愛に、登は厳しい顔を向けて言う。 「もしかして、あいつらにつきまとわれてるのか?」 「ち、違います!」  慌てて首を横に振りながら、愛ははっきりと否定した。 「じゃあ……」  心配そうな視線を向ける登に、愛はとっさに思いついた言葉を返した。 「そう。ファンなんです。父様」  手を叩いて言う愛に、登は驚いて聞き返す。 「ファン? おまえのか?」 「違います! 父様のです! 父様の作品のファンの方達なんです!」  愛の必死な声に驚きながらも、登は納得がいったのか何度か頷くと、ディスプレイの前から離れた。  そして、愛の肩を軽く叩いて笑顔で言う。 「そういうことなら遠慮はいらない。すぐに入ってもらいなさい。お茶を用意しよう」  そう言ってリビングダイニングへ消えていく登を見送りながら、愛は「はい。父様」と返事をすると胸をなで下ろした。        ◆ 「そうか、そうか。君たちのような芸術に理解のある若者がいてくれて、私は嬉しいよ」  男子生徒達を前にして、ワインを片手に楽しそうに語る父の姿を、愛は嬉しそうに見つめていた。  いきなり玄関先で謝ろうとした彼らに、愛は父の相手をしてほしいとお願いしていた。  父の楽しそうな顔が、わたしを何よりも元気にしてくれるからと。  愛の願いを快諾してくれた彼らは、登と小一時間ほど話をすると、それ以上は特に何もすることなく帰っていった。  愛は彼らを門の前で見送ると、リビングダイニングへと戻り、ソファーで寝てしまった父親にそっと毛布を掛ける。  そして、その嬉しそうな父の寝顔をいつまでも見つめていた。        ◆ 「作戦は成功したようだな」  モニターを見ながら、キリエは分割された画面をそれぞれ確認して頷いた。  アトリエや寝室の映像はないが、リビングダイニングとキッチン、そして廊下や水回りの映像は確認出来る。  音声も感度は良好で、リビングダイニングにいる愛とキッチンにいる登の会話がクリアに聞こえていた。  登はキッチンで料理を、愛はリビングダイニングのテーブルで宿題をしている。  時折、愛が登に宿題のことで質問をすると、登は料理をしながらも丁寧に答えていた。  そして料理が出来上がると、愛はテーブルの上を片付け、そこへ登が料理を運んでくる。  その料理を見て、後ろからのぞき込んでいた阿戸部が感想を口にした。 「おー、今日は鮭のムニエルかあ。旨そうだな」  振り返れば、よだれを垂らしそうな顔で阿戸部が腹を押さえている。  キリエは食べかけのお好み焼きを阿戸部に渡すと、自分は黒兎からタコ焼きを取り出して食べ始めた。 「食べかけかよ」  そう言いながらも阿戸部は夕暮れの空の下、お好み焼きを口に運ぶ。  二人は朝に使ったビルの屋上にいた。 「なあ、今度あの女に会ったらさ、俺にも話させてくれよ」 「その必要があればな」  楽しそうに言う阿戸部を一瞥して、キリエはすぐにモニターへと視線を戻した。  リビングダイニングでは、授業の内容やスーパーの特売、面白かったテレビ番組などの話を愛が楽しそうに話し、登もそれを興味深そうに聞いていた。  温かな父子家庭。それが、そこにはあった。 「中身は冷えてるがな」 「ん? ほんなこと、ないほ」 「は? 貴様、何を言って……」  振り向いたキリエが見たのは、はふはふと熱そうに何かを頬張る阿戸部の顔だった。  慌てて手元のパックを見てみれば、さっきまで三つ残っていたはずのタコ焼きが一つも残っていない。  そして阿戸部の手には、先端にタコ焼きを刺した二本の爪楊枝があった。 「貴様! わらわのタコ焼きを勝手に!」 「いやあ、旨そうだったから、つい」  そう言って阿戸部は、空になった自分の口へとタコ焼きを一つ放り込んだ。 「ああ、わらわのタコ焼きが……」  美味しそうにタコ焼きを食べる阿戸部に、キリエは俯いて拳を握る。 「許さん」 「ん?」  阿戸部は最後のタコ焼きに息を吹きかけて冷ましていたが、その声に下を向いた。  すると、いきなり傘を振り上げてキリエが口を開く。 「わらわ……」  上を向いてキリエが続きを言おうとするが、そこへ阿戸部の腕が伸びてくる。 「あーん」 「ふぐっ」  キリエの口に、阿戸部は最後のタコ焼きを放り込んだ。 「旨いか?」  顔を近づけて笑う阿戸部に、キリエは顔を赤くして目をそらしながらも口を動かす。  ソースの利いた丁度よい温かさのタコ焼きが、口の中で溶けていく。  タコ焼きがなくなると、キリエはモニターの前に座り直して小さな声で言った。 「旨くないわけなかろう。わらわのタコ焼きだぞ」  阿戸部は爪楊枝で歯の間を掃除しながら、満足そうな顔をした。  温かな雰囲気が二人を包み込む。  しかし、それはモニターを見ていたキリエの声であっさりと消えてしまった。 「愛はどこに行った?」  その言葉に阿戸部もモニターに顔を近づける。  登はキッチンで片付けをしているが、愛の姿がどこにも見当たらない。  寝室に行ってしまったのかと思ったが、そのとき、分割画面の一つに動きがあった。  それは風呂場の画面だった。  愛が寝間着を持って脱衣所に入る。  そして、服を脱ぎ始めた。 「なるほど。あいつ、着やせするタイプだったのか」 「おい! 貴様、何を見ておる!」  冷静な分析をする阿戸部の視線を、慌ててキリエは黒兎で隠す。  その黒い影に一瞬ひるむ阿戸部だったが、距離をとると視線の通る位置を探して体を動かしながらキリエに言った。 「ただの裸だろ?」  阿戸部の動きに合わせて、キリエも黒兎を移動させる。 「乙女の裸は有料だ!」 「幾らだよ?」 「貴様のような貧乏エロスには到底払えん!」  阿戸部とキリエの千手観音も真っ青な攻防が続く。  見える角度を減らそうと、キリエが風呂場の画面に顔を近づける。  そのとき、風呂場を映した画面から男性の声が聞こえてきた。 『愛。湯加減はどうだ?』  それは登の声で、湯船につかっていた愛は緊張した声で「丁度いいです」と返事をする。  そして、扉の開く音がしたかと思うとカメラの前にタオルが掛けられた。 「え、まさか……」  タオル越しに大きな人影が映し出され、シャワーの音が聞こえてきた。  キリエの顔は青ざめていくが、なぜか画面から目が離せない。  シャワーの音がやむと、タオルがカメラの前からどけられる。  そして現れたのは、どアップで映し出された男性の股間だった。 「いやああああああああああ!」  キリエの絶叫が夜空に木霊した。        ◆ 「大丈夫か?」  通勤通学の時間帯を過ぎ、静かになった朝の屋上で、阿戸部はモニター前に座るキリエに話しかけた。 「ははは、大丈夫。大丈夫に決まっておる」  キリエは、少しのぼせたように上半身をふらつかせながら力なく答えた。  それからしばらく、何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせていたキリエだったが、急にうなだれると不気味に笑い出した。  しばらく戻ってきそうもないキリエにため息をつくと、阿戸部はしゃがみ込んでモニターをのぞき込んだ。  そこには朝食の片付けを終えて、キッチンからリビングダイニングへやって来る登の姿が映し出されていた。  登は手にしたコーヒーカップをテーブルに置くと、テレビラックの下からディスクを取り出し、それをプレイヤーに入れて見始める。  モニター上には、静止画のような光景がただ映し出されるだけとなった。  阿戸部はモニターから目を離すと、キリエに視線を移す。  そこには、顔から湯気を上げて俯いているキリエの姿があった。  阿戸部はキリエの耳に口を寄せると、囁くような声で話しかける。 「そんなに男の裸が見たいのか?」 「ひゃう!」  飛び退いて耳を押さえながら、キリエが顔を真っ赤にして睨みつける。 「き、貴様! いきなり何をする!」 「何って、キリエが男の裸に興味津々みたいだったから……」  阿戸部が目の奥で笑いながら、とぼけた顔で言ってくる。 「わらわが、お、男の、は、裸などという奇怪なものに興味があるわけなかろう!」 「奇怪というより、あれはグロじゃないか?」  阿戸部の問い掛けに、キリエの思考が何かを思い出していた。 「え? そ、そうか? あの血管の浮き出……浮き……」  そこで再び思考停止したキリエは、頭から湯気を昇らせて上を向いていたが、すぐに糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 「おっと」  倒れ込むキリエを、阿戸部は優しく抱きかかえる。  そのまま抱え上げると、阿戸部はモニターの前にあぐらをかいて、その上にキリエを座らせた。  気を失っているキリエの頭を撫でながら、阿戸部がつぶやく。 「少しお子様には刺激が強すぎたか」 「わらわはお子様ではない」  ふて腐れたように言うキリエに、阿戸部は手を頭から離して言った。 「気づくの早いな」「あの程度の精神攻撃で……」  そのとき、モニターからインターホンの音が聞こえてきた。  玄関の画面に目をやれば、そこには白いスーツ姿の男が立っている。 「げっ」  阿戸部はあからさまに嫌そうな顔をしていたが、キリエは無言で画面を見つめていた。  男は登に出迎えられて家の中へと入っていく。  そして二人は、二階に上がる階段へと登を先頭に廊下を歩いて行く。  登は後ろを振り返りながら、男に今描いている作品のことについて話をしていた。  男も登のほうを向いて、その話を頷きながら聞いている。 「アルベルト」  そうキリエが口を開いた直後、男はその声が聞こえたかのように立ち止まった。  そして、ゆっくり振り向いて顔を上げる。見えるはずのない隠しカメラに向かって。  アルベルトの灰色の瞳がキリエを見つめる。  その口元には笑みが浮かび、手元には微かに七色の光が輝いていた。 「キリエ!」  阿戸部が慌ててキリエの顔をのぞく。  しかし、キリエは微かに体を痙攣させたまま既に意識を失っていた。        ◆  暖かい太陽の光が差し込む大学の研究室で、白衣姿の女性が本や資料の束を持って動き回っている。  その近くにはテーブルとソファーの置かれた簡易な応接コーナーがあり、そこにはフリル付きの可愛らしいワンピースを着た少女が座っていた。  少女は、白衣をはためかせて右へ左へと動く女性を目で追いながら、足をばたつかせてつまらなそうにしていた。 「ケイー、つまんないー」  ケイと呼ばれた女性は、手にした資料をコピー機にセットしながら少女に言った。 「キリエ、そんなはしたないことをしてると、王子様が向かえに来てくれないわよ?」  その言葉に、キリエは頬を膨らませながらも大人しく足をそろえると、両手を膝の上で重ねてきちんと座り直した。  しかし数分もしないうちに、今度は体を上下に揺らし始める。 「ねえ、ケイ。お父様は?」  不機嫌そうに自分の名を呼ぶキリエを見て、ケイは苦笑を浮かべた。  コピーの束をまとめていたケイは、その束をファイルにとじると棚にしまう。  そして、キリエのそばへやって来ると隣に座って彼女の小さな手を取った。 「教授はお仕事中。もう少しで戻ってくるから、そしたら一緒にお昼にしましょ」  そう言って笑顔を向けるケイに、キリエは急に頬を染めて目をそらすと、はにかみながら小さく頷いた。  キリエは横目で、彼女の笑顔から白衣の上を流れる艶やかな黒髪を見て言う。 「わたしもケイみたいな髪だったらよかったのに」  自分の少し癖のある短めの髪をいじりながら、キリエは残念そうな顔をした。 「キリエの髪も可愛いわよ」  穏やかな声で言いながら、ケイはキリエの頭を撫でる。 「本当に?」  上目づかいで聞いてくるキリエにケイは笑顔を返すと、何か思い出したのか「そうだ。いいものを見せてあげる」と言って立ち上がった。  そして白衣のポケットに手を入れると、そこから小さな金属の棒のようなものを取り出してキリエの目の前に差し出す。 「わあ。これは何?」  それは細かな彫刻の施された、ダイヤのように輝く小さな音叉だった。  ほのかに七色の光を放つ音叉を、キリエは目を輝かせて見つめる。  そんなキリエの前で、ケイは音叉を軽く膝に当てて音を響かせた。  それは、ほとんど無音に近いようなとても軽い音だった。  見えないくらいに細い絹糸で紡がれた、透き通った七色の音色が広がっていく。  音色は音叉を中心にして、キリエの体を優しく包み込んでいく。  そしてキリエは、落ちていくように夢の中へと誘われていった。  ソファーに横になって静かに寝息をたてるキリエの髪を撫でると、ケイは音叉をポケットに入れて自分の仕事へと戻っていく。  前に垂れた黒髪を後ろに流せば、その胸に付けられた名札が揺れる。  そこには阿戸部・恵と書かれていた。        ◆  大学の廊下には煙が立ち込め、教室や研究室は火の海になっていた。  いたるところで警報音が鳴り響き、それに混ざって人の叫び声や怒鳴り声が聞こえる。  そして構内中のスピーカーからは、少女の泣き声とともに透明な音色が流れ続けていた。        ◆  火に囲まれた大学の中庭で、少女が一人泣いている。 「怖いよぉ。お父様。ケイ。助け、て……。助けてぇ」  助けを呼ぶ声は吹き上がる炎の音でかき消され、溢れる涙はその熱ですぐに蒸発してしまう。  舞い上がる熱気につられて上を見上げれば、そこには赤い炎に囲まれた真っ黒な穴がぽっかりと音もなく開いていた。  キリエは穴に吸い込まれるように、じっと空を見上げ続ける。  そして、そこに微かな輝きを見つけた。  いて座にたて座にへびつかい座。それに、わし座とはくちょう座とこと座。  ケイの教えてくれた星座が、変わらずそこには輝いていた。 「ケイ……。ケイぃ。怖いよぉ。嫌だよぉ」  キリエは涙を小さな手のひらで拭いながら、ケイを探して周囲を見回す。  周囲からはサイレンの音が絶え間なく鳴り続け、時折何かが崩れる大きな音とともに炎が獲物に襲いかかる獣のように吹き上がる。  ケイにほめてもらった髪は乾燥してクジャクの羽のように広がり、すっかり醜く邪魔になってしまった。それが悲しく腹立たしくて、キリエは涙を流しながら唇をかみ締めた。  さっきまで水をまいていたスプリンクラーはほとんどが止まり、芝にも所々火が燃え移り始めている。  ベンチやテーブルは全て壊れて原形をとどめてはおらず、綺麗な花が植えられていた花壇には踏み荒らされ花が飛び散り、場所によっては花壇自体が崩れていた。  自分は、なんでこんなところにいるのだろう。  なぜ周りは火だらけなんだろう。  父様やケイはどこにいるんだろう。  何もわからない。わからないことだらけだった。  また涙がこみ上げてきて、キリエは息を吸った。  その瞬間、喉を熱と痛みが襲う。  息が詰まり咳き込みながら、キリエは力なくその場にしゃがみ込んだ。 「誰か助けてよぉ……」  そうつぶやいたとき、キリエは人の声のようなものを微かに聞いた気がした。  それは呻き声のような、叫び声のようなものだった。  炎やサイレンの音が響く中、キリエは声のしたほうへと顔を向け、目を閉じて耳を澄ます。  木のはぜる音や草木の燃える音、その奥から何かを叩くような重く鈍い音が、ゆっくりとした間隔で聞こえてくる。  そして、その音の合間には「あー」とも「うー」とも聞こえるような低い声が聞こえた。  声のほうへ、キリエは目を開けて視線を送る。  そこには二つの黒い陰があった。  一つは地面に横たわる人のようなもので、もう一つは膝立ちで何度も何度もお辞儀をするように動いている。  立った陰がお辞儀をするたびに、横たわった陰は全身を震わすように小さく動き、そして重く鈍い音が響いた。  二つの動く陰に、キリエは息を詰めて目を凝らす。  炎が風に揺れて陰を照らし出した。  その光景にキリエの目は釘付けになった。 「何、してるの?」  それは、顔のない人の体をレンガで叩き潰す女性の姿だった。  女性は呻くような声を上げながら、何度も何度も何度もレンガを振り下ろす。  既に自分で動くことのなくなった肉塊からは、血や内蔵が飛び散って、その一部は女の顔にへばり付いていた。 「い、や……」  目をそらしたいのに体が硬直して思い通りに動かない。  そんな中、キリエは視界の隅にも動く陰があることに気づいた。  見てはいけない。  そう頭ではわかっていても、確認せずにはいられなかった。  ゆっくりと、錆び付いた機械のような体をそちらへと向けていく。 「あぁ……」  そこには、校舎の窓に張り付くようにしている白髪交じりの男の姿があった。  男は白衣を着ていたが、袖や裾に火がついてぼろぼろになっている。  それでも男は白衣を脱ぐことなく、窓に頬を密着させて焦点の定まらない目でこちらを見ていた。  それはキリエの父親だった。 「父様」  優しくて、いつ研究室に行っても笑顔で迎えてくれる大好きな自慢の父の顔が、そこにある。  会いたかった人が今、体を火に焼かれながら虚ろな瞳で自分を見ていた。 「どうしたの、父様?」  キリエはかすれた声で父に話しかける。  しかし父は、壊れたおもちゃのように窓に張り付いたまま、ただ体を左右に揺らすだけだった。 「父様。どうして、そんな顔、してるの?」  自分の知らない顔で自分を見続ける父に、キリエは尋ねた。 「ねえ、どうして、笑ってくれないの?」  キリエは、自分が笑えばきっと父も一緒に笑ってくれると、引きつる肌を無理矢理笑みの形に変えていく。  そして、これで父も笑ってくれると思った瞬間、その体が横から現れた陰によって吹き飛ばされた。 「父様!」  父の飛んでいったほうに目を向けるが、そこに窓はなく、炎に揺れる影があるだけだった。 「そんな……」  窓のほうに視線を戻せば、窓際だけでなく、その奥の教室でも幾つもの人影が炎の中を蠢いている。  それらは壁を殴り窓を壊し扉を蹴り飛ばして、手当たり次第に破壊を続けていた。 「いや……」  キリエの中に破壊と喪失の渦が流れ込む。 「もういや。イヤイヤイヤイヤ、イヤアアアアアアアアアアアアアアア!」  橙色に染まる大地から藍色へと変わり始めた空へと、少女の絶叫が鳴り響いた。        ◆ 「おい! しっかりしろ! キリエ!」  阿戸部は、膝の上で急に暴れ出したキリエに呼びかけた。  しきりに「父様」と叫ぶキリエを、阿戸部は全身で抱きしめなんとか押さえ込む。 「大丈夫だ! キリエには俺がいる! 大丈夫だから!」  それでも暴れ続けるキリエに、阿戸部は眉間に深い皺を寄せて奥歯をかみしめる。  そして、より強くキリエに体を密着させると、その耳元に囁いた。 《おまえは独りじゃない》  その瞬間、キリエの全身が細かく震えた。  そして、その震えが消えると、途端にキリエの体から力が抜ける。  自分の胸へと背中を預けてきたキリエの顔を、阿戸部は心配そうにのぞき込んだ。  すると、しばらくしてキリエがゆっくりと目を開く。 「あれ? わたし……」 「大丈夫か?」  阿戸部の呼びかけにキリエが上を向く。  そこにある阿戸部の顔を見て、キリエは笑顔をつくろうとするが、それは途中で泣き顔へと変わり、それでも彼の顔を見つめたまま、キリエはその頬に手を伸ばす。  そして、その温もりを確かめると、少しすねたような口調でキリエは言った。 「誰がぼっちだ。バカ阿戸部」        ◆  強い風が学校の屋上を吹き抜ける。  空一面に雲は広がり、薄暗い校庭では、それでもサッカーを楽しむ男子生徒の姿があった。  横目でそんな昼休みの光景に目をやりつつ、阿戸部はフェンスに寄り掛かりながら焼きそばパンをくわえていた。 「あの、いきなりこんな所に連れてきて、一体どんなご用でしょうか」  阿戸部から少し離れたところに立っていた愛が、落ち着かない様子で目の前のキリエに尋ねる。  その目はちらちらと阿戸部のほうを見ているが、キリエは気にすることなく話を始めた。 「上瀬・愛。貴様に言っておきたいことがある」  その突きつけるような声に、愛は視線をキリエだけに向ける。  その視線を受け止めて、キリエは愛に告げた。 「あの男、アルベルトは死神だ」 「え?」  キリエの言葉に、愛は目の前にいるのが小さな女の子であることを思い出した、  しかし彼女は、真剣な表情のまま焦りをにじませた声で言ってくる。 「貴様の家に来ている白ずくめの男。あいつは死神だと言っている」  キリエは男の危険性を何とか伝えようと、その眼差しに力を込めた。  しかし、まるで睨みつけるようなその視線に、愛は自分の体を抱くように腰のあたりに手を回すと、困ったような苦笑いを浮かべた。  不信の目を向けてくるだけの愛に、しかしキリエは構うことなく話を続ける。 「あいつが現れてから貴様の父親に何か……、例えば行動や性格に変化はなかったか?」  その言葉に、愛の表情が一瞬驚きに変わった。  それをキリエは見逃さなかった。 「あったのだな。だったら、わかっているだろう。あの男は危険だ」  愛は、あの男――アルベルトがやって来た日のことを思い出す。  その日は母の告別式で、激しい雨が降っていた。  弔問に来た人がほとんどいなくなった頃、アルベルトは場違いな服装でやって来て父に話しかけた。  そして、父は泣いた。  母が自殺した日から泣くことも怒ることも、ましてや笑うこともなく、ただそこにあるだけだった父の目に涙が溢れていた。  それから父は確かに変わった。  以前のように笑うようになり、筆を執って絵も描くようになった。  そして、それまで以上に自分を愛するようになった。  過去の悲しみを、そして今の父との関係を他人にのぞかれたような気がして、愛はキリエから視線を外すと、地面に叩きつけるように感情をあらわにして否定した。 「そんなことありません! あの人はずっと父様を支えてくれました! ただ、それだけです! あの人がいなければ父様も、そして、わたしもどうなっていたか……」 胸の前で手を力強く握りしめて叫ぶ愛に、キリエは彼女を見つめたまま静かに言う。 「それが危険だと言っている」  何かに怯えながら、それでもアルベルトのことを信じようとする愛に、キリエは冷たい目をして話を続けた。 「あの男に関わるな。あの男に関わった人間の末路は、自殺するか奴の操り人形になるかの二択しかない」  半ば脅すような口調で言うキリエに、愛は自分の中にある焦りと同じものを彼女に感じながらも否定を続ける。 「いいかげんなことを言わないでください! たとえそうだとしても、今あの人を失うわけにはいきません! そんなことをしたら、それこそ父様は人形に戻ってしまう! 父様にはあの人が必要なんです!」  今まで感じつつも無視していた胸のざわつきが、キリエの感情と共鳴するかのように愛の中で急激に大きくなっていく。  しかし、それを認めるわけにはいかなかった。  もう少しなのだ。  今手がけている父の作品が完成し、そして自分が高校を卒業すれば、きっと次へと進めるはず。  だから、 「もう、わたしたちに関わらないでください!」  愛はキリエの視線を振り払うように叫んだ。  邪魔はさせない。  キリエに背を向けて、愛は屋上から早足で去って行く。 「手遅れになるぞ!」  突き刺すような声で言うキリエの警告にも背を向けたまま、愛は止まることなく階段への扉を開けて、元の生活へと戻っていった。  それを追うことなく見つめていたキリエに、阿戸部は人ごとのように声をかける。 「止めなくてよかったのか?」  愛のいなくなった扉を見つめながら、キリエは上を向いた。  空に目をやれば、一面に広がる雲がうねるように次々と流れていく。  キリエはゆっくり息を吐くと、少し悲しげにつぶやいた。 「どうしたものかな」        ◆  学校から帰ってくると、愛は制服も脱がずにノートパソコンを起ち上げた。  椅子にも座ることなく立ったまま、インターネットを使って「白い服 自殺」といったキーワードで検索する。  そして、画面に表示された検索結果を上から順に眺めていく。  ドラマや映画、小説といった内容が続く中、愛はニュースとして報道された記事を探していった。  しかし、自殺のニュースで白服の男が出てくるようなものは見つからなかった。  愛は取り敢えず椅子に腰掛けると、背もたれに寄り掛かって一息をついた。 「死神なんて都市伝説みたいなこと言って、いったい何が……」  そこまで言って、愛はさっきの結果に「死神 都市伝説」というキーワードを何となく加えてみた。  そして、検索を再度実行する。 「うそ。なんなの? これ……」  出てきた結果に、愛の背筋を冷たいものが駆け降りていく。  そこには自殺した人の経緯だけでなく年齢や性別、さらには実名らしきものが載っているものもあった。  そして、その幾つかには白ずくめの人物として「アルベルト」という名前があった。 「都市伝説なんて……、あくまで噂、よね」  そう言いながらも、愛の目は画面の文字を追っていた。  そこに書かれている白い男の容姿は、まさに自分の知っているアルベルトそのもので、彼は身分や職業を偽って話巧みに目標に近づくと、長くても数年以内には目標とした人物を自殺に追いやっているようだった。 「白い死神」  画面に表示されたその言葉とアルベルトの姿が重なる。  愛は急いで立ち上がると自分の部屋を出て、父がいるはずのアトリエへと向かった。        ◆  アトリエの扉をノックすると、しばらくして登が扉から顔を出した。 「愛、どうした?」 「あの、父様……」  不安そうな顔で見つめてくる愛に、父は優しい笑顔を向けると、 「リビングに行くか?」  と提案した。しかし、愛は俯きながら首を横に振った。  そして、意を決すると登の顔を見上げて話し始める。 「今日、学校でアルベルトさんの噂を聞いたの」 「噂?」  登が不思議そうな顔をする。 「うん。あのね、あの人の周りでよく、その、人がじ……」  自殺という言葉を直前で飲み込んで、愛は再び俯くと小さな声で続きを口にする。 「亡くなってるって……」  窺うようにして登の顔を見てみれば、そこには眉尻を下げて自分を見つめる悲しげな表情があった。 「愛は、アルベルトのことを悪い人だと思っているのかい?」 「いえ、そういうわけでは……」  視線をそらしながら愛は答えた。  登は、そんな愛の小さな両肩に自分の手を置いて言い聞かせる。 「アルベルトは私にとって恩人だ。夕美のときには私に希望の光を見せてくれたし、その後もいろいろと相談に乗ってくれた。芸術にも理解があるし、今手がけている作品が完成すれば個展も開いてくれると言っている。彼が素晴らしい人間だということは、愛、直接会っておまえもわかっているだろう?」  そんな噂は気にするなと子供をあやすように言う登に、愛は自分の気持ちが届かないもどかしさを感じていた。 「でも、わたし不安なんです。インターネットでも白い死神って……」 「愛」  両肩をつかむ登の手に力が籠もる。  愛は身をすくめると、おずおずと顔を上げて返事をした。 「はい」 「おまえは、噂なんていう出所の怪しい情報と私のどちらを信用するんだ?」  怒っているような、それでいて泣き出しそうにも見える表情を浮かべながら、登は愛に問い掛ける。  愛はその目をじっと見つめ、震えそうになる声を抑えながら、ゆっくりと答えを口にした。 「父様、です」 「それでいい」  その答えに安心した登は、愛を抱きしめると耳元で囁いた。 「愛。おまえは、いつまでも私のそばにいておくれ」  愛は何も答えず、黙って父を抱きしめ返した。        ◆  暗い部屋の中、登は枕元の照明だけを付けてベッドで横になっていた。 「愛。おまえも行ってしまうのか?」  その手にはフォトフレームがあり、明かりに照らされた枠の中には愛の後ろに立つ登、そして登に寄り添うようにして立つ女性の姿があった。 「夕美」  登は愛しい女性の頬を指でなぞりながら、その名をつぶやく。  そして、その指は二人の前に立つ愛へと軌跡を伸ばす。 「君はなぜ、自殺なんて……」  あの日の記憶がフラッシュバックする。  それは本当に普通の朝だった。  三人で楽しく朝食を食べ、愛は学校に行き、私は二階のアトリエへと向かった。  夕美は、洗濯が終わったら後でコーヒーを持っていくからと言って、一階に残った。  私はアトリエに籠もって作品の制作に集中していた。  それは三人の記念となるはずの作品で、当時の私は時間も忘れて取り組んでいた。  私がそれに気づいたのは、夕日がまぶしいと思ったことがきっかけだった。  そのときになって私は、夕美が一度もアトリエに来ていないことに気がついた。  どうしたのかと思って一階に降りてみると、ダイニングテーブルにはコーヒーカップが置いてあった。  そして、その下には一枚のメモ書きが挟んであって、そこには一言、「ごめんなさい」とだけ書かれていた。  私は彼女が何に謝っているのかわからないまま、コーヒーカップを手にとって冷めたコーヒーを一口飲んだ。  すると、重しを失ったメモ書きは風に吹かれ、開いていた窓から外へと流れていく。  窓の外では、夕日を背に白いシーツが風に揺れていた。  しかし、それは不自然に下へと長く、私は誘われるように下へと視線を移す。  下へ行くほどに、シーツには何かが飛び散ったような跡が多くなり、そして私は見た。  地面に敷かれた短いシーツの端に横たわって、首から血を流している夕美の姿を。  フォトフレームが音を立てて軋む。 「あれは、アルベルトの仕業なのか?」  はっきりとは言わなかったが、愛はアルベルトが人を自殺に追い込んでいると言っていた。  夕美を手にかけるアルベルトを想像しそうになって、登は激しく首を振った 「そんなはずはない!」  登は自分に言い聞かせる。  愛には噂を信じるなと言っておいて、自分が迷ってはいけない。  そんなことだから愛に「でも」などと言わせてしまうのだ。  愛の信用まで失ってしまったら、自分から愛が離れていってしまう。 「離れていく? まさか……」  登は頭に浮かんだ一つの考えに、思わず固唾を呑んだ。  愛が自分との関係を終わらせようとしているのではないか。その考えに、登の背筋が寒くなる。 「そんな……。今度こそ夕美を最後まで愛することが出来ると思ったのに……。三人で幸せになれると思ったのに……」  登は写真をもう一度見つめると、それを抱きしめてうずくまった。  手足は震え、歯がカタカタと音を立てる。 (イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ……)  登は呪文のように否定の言葉を並べ、目を閉じて迫り来る恐怖に背を向けた。  すると、まぶた越しに照明とは違う温かな光が登の闇を照らす。  登は目を開くと、光を求めて周囲に視線を向けた。  それはシーツの上を自分へとまっすぐに伸びる光で、さかのぼるようにして視線を光に沿わせていけば、そこには照明の光を反射して輝く一本の小さな音叉が立っていた。  登は助けを求めるようにして、それに手を伸ばす。  しかし指先が震え、つかもうとした音叉は登の指に触れただけで離れるように倒れていく。  そして倒れた音叉から、高音の澄んだ音色が闇の中に広がった。  その音は登の震えを打ち消し、彼の意識は平穏な闇の中へと飲み込まれていった。        ◆  雨の中、喪服姿の人々が家の中に入っては次々と帰って行く。  そんな流れから外れた場所に、一人の男が立っていた。  男は傘も差さず、白いスーツ姿に白い梟の羽根をつけた白い中折れ帽を目深にかぶっていた。  周囲から浴びせられる奇異の視線にも動じることなく、男はある一点を見つめていた。  縁側に座っていた登は、黒い動きの中から取り残されたその白い影のような存在を、見るともなく見ていた。  人の流れは段々とまばらになり、線から点の流れへと変わっていく。  悲しみや気遣いを伴った声の波もほとんど聞こえなくなり、地面を叩きつける雨の音だけが変わらず耳に届いていた。  誰もいなくなった庭へと、白い影がやって来る。  その影は、登の前まで来ると帽子を取って恭しく頭を下げた。  その首筋から柔らかに流れ落ちる純白の髪が、登にはどこか温かく感じられた。 「お隣、よろしいですか?」  少し男にしては高い声で、その白い影は登の顔を見つめながら言う。  登はその透き通るような灰色の瞳に目を奪われて、何も言うことが出来なかった。  そんな登の様子を見て、男は目を細くして微笑む。  男は帽子を浅くかぶり直して登の隣に立つと、空から落ち続ける数多の水滴とその始まりへと視線を向けた。  登もつられるようにして、雨雲の広がる空を見上げる。 「夕美さんとは、以前に一度だけお付き合いをしていたことがあるんです」  男は前置きもなく話し始めた。  しかし、その声は雨音に遮られることなく、はっきりと登の耳に届いた。  妻の名前とその後に続いた言葉の意味に、登は少し過去へと思いを馳せ、そして苦笑を浮かべた。 「何がおかしいんですか?」  怒ったふうもなく、むしろ楽しそうに男は尋ねる。  登は大きく息を吐いて肩の力を抜くと、少し呆れたような口調で答えた。 「君は、嘘つきだな」  その言葉に、男は悪びれたふうもなく「ばれましたか」と空を見ながら答えた。  そして、スーツのポケットから何かをつかんで取り出すと、登のほうを向いて握ったまま手を差し出す。 「僕は、こういう者でして」  そう言って握った手を広げると、そこには二つに折り畳まれた小さな白い厚紙があった。 「ブックマッチとは珍しいな」  登はそれを手に取って、表に書かれた流れるような美しい文字を読む。 「アルベルト・ケインリッヒ」 「美術商をしております」  それも嘘かもしれないと思いつつ、登はアルベルトに尋ねた。 「君は、いつも名刺ではなくマッチを渡しているのかい?」  その問いに、アルベルトは目を閉じて首を横に振る。  白髪が揺れて、透明な音を奏でているような気がした。  髪の揺れが収まると、彼は目を閉じたまま、どこか祈るように言った。 《僕は、その人の望むものを渡しているのです》  その瞬間、登の全身を寒気が駆け抜けた。  しかし、それはすぐに消え去り、さっきまでは気にならなかった雨の音が、やけにうるさく感じられた。 「どうかしましたか?」  その声にハッとして、登は目をしばたたかせる。  目の前には、灰色の瞳を向けて微笑むアルベルトの顔がある。  その瞳は相変わらず透明で、しかし、その奥には何かが蠢いているような……。  そこで登は、慌ててアルベルトから視線をそらした。  瞳へと吸い込まれそうになった感覚に、登の鼓動が速くなる。  それをごまかすように、登は質問を投げかける。 「で、では、なぜ私にはマッチを?」 アルベルトは、再び空を見上げながら言った。 「火は美しい。それに、温かい」  アルベルトの言葉に、登は自分の手の中を見つめる。  そこにある折り畳まれたブックマッチを開くと、虹色に塗り分けられた七本のマッチが並んでいた。  その中から、登は一番端にあった赤いマッチをちぎると、それに火をつける。  火は一瞬大きく吹き上がり、マグマのようなうねりと煌めきを見せる。  そして、舐めるように軸を燃やしながら小さくなっていく。  指先に触れることなく消えた光の跡を、登はしばらく見つめていた。 「何か、見えましたか?」  空を見上げたまま、アルベルトが穏やかな声で尋ねる。 「いや、何も」  登はそう言ってブックマッチを閉じた。  赤を失った虹を隠すように。        ◆  その日は大学のオープンキャンパスだった。  しかし土砂降りの雨に見舞われて、見学に来ている学生はほとんどいない。  キャンパスの中央にある真新しい校舎とは違い、取り残されたような位置にある古ぼけた校舎ではなおさらだった。 「真希。どこー」  呼びかけにしては随分と小さな女子高生の声は、返事を待つことなく薄暗い廊下の隅へと吸い込まれて消えていく。 「もう、どこ行ったのよー」  彼女は肩を小さく震わせながら、周囲を見回して言った。  まっすぐ続く廊下には誰もおらず、ずらりと並んだ教室らしき部屋の扉は、どこも閉まっていて、明かりが漏れているような窓も見当たらない。  しかも、廊下の照明は埃をかぶっているのかそれほど明るくはなく、何本かは点滅していたり切れているようだった。  他人の声がしない細長い空間で、窓を打ちつける風の音だけがやけに耳につく。  場違いな自分を責めているような、そんな気さえ彼女はしていた。 (やっぱり、来なければよかったかな?)  そう思って下を向いたとき、彼女の耳に聞き慣れない音が響いた。  それは何かが破れるような長い音と、突き刺すような短い音で出来ていた。 「何?」  音のほうに目を向ければ、そこにはほかと同じく明かりの消えた部屋があるだけだった。  彼女は怯えながらも、もしかしたら誰かがいるのかもしれないという希望を胸に、恐る恐る音のほうへと近づいていった。  扉の前まで来ると、彼女は息を詰めて扉の窓をのぞき込む。  しかし窓は小さく、曇りガラスがはめられていて、ほとんど中の様子はわからなかった。  代わりに扉に耳を当てると、さっき聞こえた音が、今も確かにこの部屋の中から聞こえてきていた。  そして微かにだが、息遣いのような短い声のようなものも聞こえてくる。  彼女は扉に手を掛け、ゆっくり音を立てないように開いていった。  開いた扉の向こうには人の背があり、その人はしきりに手を振り上げては、何かに向かってその手を振り下ろしていた。  その動きは、彼女の前で何度も何度も繰り返される。  ときには、振り下ろした手を縦や斜めに力強くスライドさせて、何かを押しのけるように振り抜いていく。  何をしているのかわからなかったが、とにかく人がいることに安堵し、彼女はその人影に声をかけようとした。  そのとき、目の前の人がそれまでとは違う動きを見せた。 「くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」  叫び声とともに何かを持ち上げると、人影は四角い形をしたそれを彼女へと投げつけた。 「きゃっ!」 「なっ!」  彼女の悲鳴に応えたのは、驚く男性の声だった。  その声に、彼女は顔をかばうようにして上げた腕の隙間から前を見た。  そこには投げ終わった姿勢のまま硬直し、目を丸くする一人の青年の姿があった。  しかし、投げられた物は止まらない。  空中を行くイーゼルとカンバスは、青年から彼女へとまっすぐに飛んでいく。        ◆ 「本当にごめん!」  明かりのついた教室の中で、青年は膝立ちのまま椅子に座った少女に謝っていた。  少女は自分の左腕を青年につかまれたまま、その腕に包帯を巻かれている。  しかし、よほど青年は緊張しているのか、彼女の白い肌に直接触れるたび、「ごめん」と謝ってはその手を離しそうになる。  そのせいで、包帯は所々で緩んでしまい、なかなか上手に最後まで巻けないでいた。  余りに一生懸命なその様子に、彼女は微笑みを浮かべる。  そして、心の中で「がんばって」と声をかけた。  すると青年が、上目づかいで彼女へと視線を向ける。  それに慌てて、少女の笑顔は眉尻を下げた苦笑へと変わってしまった。 「えっと、あの……」 「あ⁉ もしかして痛かった?」  彼女の困り顔に、青年は慌てて包帯を緩めようとする。 「いえ! 違うんです!」  すぐに少女は否定の声を上げたが、その声に青年は、泣きそうな子犬のような瞳を向けて彼女を見上げた。  その瞳に少女の頬が熱を持つ。  胸を締め付けるような息苦しさに、少女は右手を握りしめると胸に当てた。  そして、暴れる心臓を押さえつけようと肩を縮めて力を込める。 「だ、大丈夫ですから。そのまま、続けてください」  顔を背けながら言う彼女に、青年は少し不思議そうな表情を浮かべたが、「うん」と小さな声で頷くと再び包帯を巻き始めた。  そして少女は、その少しくすぐったくも優しい動きを左手に感じながら、置き場のなくなった視線を教室の中へと向ける。  教室の中にテーブルはなく、壁際にはイーゼルや描きかけの油絵などが無造作に置かれていた。木製の床には至るところに絵の具が飛び散っていて、いかにも美大といった雰囲気を感じさせる。そして扉付近の床には、バラバラになったイーゼルと引き裂かれてボロボロになったカンバスが転がっていた。  扉を開ける途中だったことが幸いして、飛んできたイーゼルは扉にぶつかって止まったが、カンバスは隙間を抜けて彼女の顔目掛けて向かってきた。  彼女はとっさに顔を腕でかばったが、そのせいで腕を怪我してしまった。  怪我は擦り傷のような感じで血が滲み、それを見た青年は慌てて、尻餅をついていた少女を抱きかかえると椅子に座らせた。 (重くなかったかな?)  思い出して顔をさらに赤らめながら、少女は青年へと視線を戻す。  額に汗を浮かべながら自分の手当てをしてくれる青年に、少女は優しい眼差しを送った。  しかし、それはすぐに悲しげなものとなる。 「なんか、皆さん凄いですね」 ため息のような彼女の言葉に、青年は包帯を巻きながら聞き返した。 「何が?」  少女は、包帯と悪戦苦闘している青年を見下ろして寂しげに言う。 「なんて言うか、どの作品を見ても、作ってるとこを見せてもらっても、わたしには、とてもまね出来そうもないなって……」 「そんなことないさ」  包帯を見つめたまま、軽い口調で青年は言った。 「そんなことありますよ。わたしに、あんなこと出来ません」  そう言って、少女は扉付近の床を見る。  青年は手を止めて、床に散らばった残骸に目をやると苦笑を浮かべた。  そして再び少女の腕へと視線を戻して言う。 「君だって、大きくていらない物は解体するだろ?」 「分別くらいはしますけど……」  あれは解体なのだろうかと少女は思った。 「よし、出来た」  青年の声に自分の腕を見れば、二回りくらい太くなった腕がそこにはあった。  思わず笑い出しそうになって、彼女は体をくの字にして肩を震わせる。  その様子に、青年は顔を赤くして俯きながら言った。 「ごめん」  その言葉を聞いた少女は、ハッと顔を上げて慌てて両手を振って謝る。 「こちらこそ、ご、ごめんなさい!」  その拍子に、包帯を巻かれた腕に軽い痛みが走る。 「痛っ!」 「大丈夫か⁉」  青年がとっさに少女の手を握る。 「あ……」 「え?」  彼女の声に、青年は彼女の顔と握っている手とを交互に見やった。  二人の鼓動は速くなり、時間は伸びて遅くなる。  少女の思考は空回りし、青年の頭は彼女の小さな手の感触でいっぱいになった。 「や、柔らかい」  思わず出た言葉に、青年は自分で驚いて手を離すと彼女に背を向けた。  少女は離された手を胸に抱いて、そそくさと窓のほうへと顔を向ける。  無言の空気が広がり始めたとき、少女は空にあるものを見つけて声を漏らした。 「わあ、綺麗」  いつの間にか雨はやみ、代わりに雲間からは光が降り注いでいた。  そして、その光に重なるようにして大きな虹がかかっていた。 「……好きだ」  後ろから、青年のつぶやくような声が少女の耳をくすぐる。  その声に少女はビクッと体を震わせ、耳の先まで真っ赤にする。  そして、窺うように少しだけ顔を青年のほうへと向けた。  少女と青年の視線がぶつかる。  その瞬間、青年は視線を窓のほうに向けて空を指さして言った。 「い、いや……、あの、虹が、ね?」 「あ、ああ! そうですよね! ええ! わたしも好きですよ! な、なんか、見てるだけでワクワクしますよね⁉」  あたふたと虹のほうを向いてそう言う彼女を、青年は楽しそうな瞳で見つめていた。        ◆ 「どうしたものか」  目の前でカルボナーラを頬張る阿戸部をよそに、キリエはファミレスのソファーで俯きながら考えていた。  愛にアルベルトのことを話したあと、しばらく上瀬家の様子を窺ってみたが状況はよくなかった。  登はアトリエに籠もっているのか、ほとんどモニター画面に映らず、代わりにアルベルトの姿ばかりが日増しに多くなっていく。  念のため録画したものを阿戸部に確認してもらっていたが、あれ以降、アルベルトが何かをしてくるということはなかった。 「時間の問題ということか」  キリエはそう言いながら、皿を空にして満足そうにコーヒーを飲んでいる阿戸部へと目を向ける。 「多少強引な手だが、この際、仕方がない」  キリエは自分に言い聞かせるように言って頷くと、阿戸部に話しかけた。 「おい、阿戸部……」  そこまで言ったとき、不意に二人の横へと人がやって来た。 「お待たせいたしました」  それは、ひらひらした可愛らしい制服を着たウェイトレスだった。  ウェイトレスはトレイを持ったまま、キリエに優しく微笑みかけて言う。 「こちらがご注文の……」  そして料理名を言いながら、トレイに載っていたそれをキリエの前へと置いた。 「お子様ランチです」 「なっ⁉」 「ブッ⁉」  阿戸部が思わず飲んでいたコーヒーを吹き出す。  そして、それは狙ったかのように目の前のキリエへと降り注いだ。 「き・さ・まああああああああああ!」  コーヒーまみれで肩を震わせるキリエに、阿戸部は助けを求めるようにウェイトレスのほうを見る。  しかし、ウェイトレスは困ったような表情を浮かべると「拭くものをお持ちしますね!」と言って、ダッシュで厨房のほうへと消えてしまった。  助けを失ったことに呆然とする阿戸部だったが、不気味なオーラを感じて再び視線をキリエのほうへと向ける。  そこには、黒兎の腹に片手を差し込んで目を光らせる悪魔の姿があった。 「いや、だって、おまえが適当に頼めって言うから……。俺は、ただ注文聞いてきた奴におまえが喜ぶようなものを適当にって言っただけで……」  阿戸部は最後の抵抗を試みるが、その言葉が悪魔の耳に届くことはなかった。 「地面を這ってろ! この能なしの虫けらが!」  叫び声とともに、キリエは黒兎の腹からどでかいハンマーを取り出す。  そして、阿戸部の頭上へと躊躇なく振り下ろした。        ◆ 「もう関わらないでと言ったはずですが?」  喫茶店のテーブル席で目の前の二人を睨みつつ、愛はあからさまに不機嫌な声でそう言った。 「それに、その格好……」  愛の目の前には、サングラスとマスクを着けたキリエと阿戸部の姿がある。  阿戸部は猫耳パーカーを着て、耳の付いたフードをすっぼりとかぶり外を見ていた。  そしてキリエは、胸に白い三日月型の模様が入った熊パーカーを着ていた。  彼女の顔をすっぽりと覆うフードには、丸くて小さな可愛らしい耳がついている。  しかし、黒兎を抱えたその姿は、まさに獲物を捕らえた獣のそれだった。 「変な輩の目を欺くためだ。気にするな」  気のせいか少し頬を赤くしながら、キリエは目をそらして言う。  自分の目の前にいるのがまさにそれだと思いながらも、愛は黙っておくことにした。 「それで下校中の私を強引に連れてきて、今日はどんな用件ですか?」  背筋を伸ばして上から見下ろして言う愛に、キリエはその目をまっすぐに見つめ返して言った。 「貴様の父と話をさせてくれ」 「無理です」  目を閉じて即答する愛に、それでもキリエは話を続ける。 「なぜだ。話をするだけだぞ。十分、いや五分でも構わない」  愛は目を閉じたまま、機械のように口を開く。 「アルベルトさんが、父様を制作に集中させたいから、外部からの連絡は全て自分に回すようにと」 「それでも、玄関先に連れ出すことくらいは出来るはずだ」  愛の顔をじっと見つめたまま、キリエはそう問い掛ける。 「父様はもう、作品が完成するまで二階から降りてきません。食事はアルベルトさんが用意してアトリエに運んでいますし、水回りは二階にも揃っていますから」  愛は、ただ淡々と言葉を並べていく。 (二階に軟禁状態ということか)  キリエは次の言葉を考えようと、少し視線を外して黙り込んだ。  しかし、愛は次の言葉を待つことなく席を立つ。 「ほかに話がなければ、わたしはこれで」  そう言って、横に置いていたスーパーの袋を持って席から出ようとする。  そんな彼女の前に、キリエは無言で傘を突き出した。  サングラスをずらして自分をまっすぐに見上げるキリエの視線に、愛も無言のまま無表情に冷たい視線を返す。  その視線にキリエは薄い笑みを返すと、口を開いて用意した言葉を声にした。 「愛。貴様は本当に父親に愛されているのか?」  その言葉に愛の表情が一変する。  キリエを見下ろす目は大きく見開かれ、顔は怒りに赤黒く染まっていた。  愛の口から感情の波が決壊するように漏れ出ていく。 「あなたみたいな子供に何がわかるの⁉ 父様は私を愛してくれてる! そう、昨日だって一昨日だって、毎日毎日毎日毎日……」  震える体を抱きしめながら、愛は焦点の合わない瞳で言葉を吐き出した。  俯く彼女に、キリエは傘の先端を突きつけて問い掛ける。 「では、その父親と作品のどちらが大切なのだ!」 「両方よ!」  テーブルに両手を叩きつけて愛は叫んだ。  その拍子にスーパーの袋からリンゴが一つ飛び出し、床を転がっていく。  しかし、それを気にする者はいなかった。  愛の感情が、止まることなく言葉とともに吐き出されていく。 「あの作品は、わたしたち家族にとって大切なものなの! あの作品が完成すれば、きっとわたし達は先に進める! だから……」  愛は涙を溢れさせる瞳でキリエを鋭く睨みつけ、叩きつけるように声を放った。 「作品が完成するまで父様には会わないで!」  涙を振り切って喫茶店を出て行く愛に、思わずキリエは手を伸ばす。  しかし、その手が愛に触れることはなかった。 「阿戸部、貴様……」  つかまれた手首の痛みに振り向けば、そこにはサングラスを下にずらして愛の背中を見つめる阿戸部の顔があった。  その目は、餓えた獣が獲物を見つけたときのような怪しい輝きに満ちていた。 「もう手遅れだ」  そう言うと、阿戸部は飢えの渇きを少しでも潤すように、手にしたリンゴを口の上で握り潰し、溢れ出る果汁を喉に流し込んだ。  しかし、彼らは自分達の様子を窺う視線に気づいてはいなかった。  彼らから一番離れた席に座って微動だにしない、白いスーツを着た馬面の姿に。        ◆  夕暮れの公園で揺れるブランコを眺めながら、愛はベンチに一人座っていた。  さっきまでブランコで元気に遊んでいた子供達は、親とともに帰ってしまった。 「ハンバーグかぁ」  楽しそうに夕飯の内容を口ずさんで帰って行く親子を思い出しながら、愛は横に置いたスーパーの袋をのぞいた。 「あれ、リンゴが……」  買ったはずのリンゴがなくなっていた。  念のため、ほかになくなったものはないか袋の中を確認してみる。 「鶏もも肉にヨーグルト、セロリ、ニンジン。それから……」  ほかには小さな瓶や袋に入った粉末だけで、愛には使い方はおろか、味さえもよくわからないものばかりだった。  愛はアルベルトから渡されたメモを取り出すと、そこに書かれたカタカナを読み上げつつ、瓶や袋のラベルに書かれた名前を確認していく。 「カルダモンにナツメグ、ローリエ、クミンにコリアンダーと。大丈夫みたいね」  父が使う絵の具の名前みたいだと思いながら、愛はリンゴ以外は無事であることに安心してため息をついた。 (リンゴはデザートだよね。だったら、今日は冷蔵庫のチーズケーキでもいいよね)  そう言い訳を用意して、美味しそうなケーキを思い浮かべた途端、愛のお腹からウシガエルのような低い鳴き声が響いた。  とっさに周囲を見回すが、幸い誰も近くにはいなかった。  愛はお腹をさすりながら、赤くなった顔を隠すように俯いた。 「お腹空いたー。今日の夕飯は何かな?」  買った材料から夕飯を思い浮かべようとしたが、まな板の上に材料がそのまま並ぶだけで何一つ料理にはならず、愛は苦笑を浮かべる。そして、それは次第に悲しげなものへと変わっていった。 「母様に似て、わたしも料理は全然なんだよね」  愛は昔に一度だけ、母と一緒に料理をしたことを思い出した。  その日は父の誕生日で、父の驚くような美味しい手料理を御馳走しようと、自分も母も異様なくらいに気合いが入っていた。  しかし、その結果は散々で、キッチンは実験に失敗した化学工場みたいな惨状となり、それから一週間は外食になってしまった。 (あのときは二人揃って凹んだなぁ)  目の前に広がる夕日に照らされた地面に、ぽつりと暗い点が浮かんだ。  それは一つ二つと、重なるように広がっていく。  そして、地面に空いた小さな穴から空へと声がこぼれ落ちた。 「母様」  震えを帯びたその声は、誰にも届くことなく茜色の空へと消えるはずだった。  しかし、それを拒むように一つの足音が響き、地面に空いた穴を覆うように影が落ちる。 「どうかしましたか?」  その透き通るような声に顔を上げれば、夕日を背にアルベルトが立っていた。  彼はハンカチを差し出し、目を細めて笑顔を浮かべる。  それを見て、愛は初めて自分の頬を伝うものに気がついた。 「あれ、目にゴミでも入ったかな?」  ハンカチを受け取って涙を拭う愛に、アルベルトは「そうだ」と言って、スーツのポケットから何か小さなものを取り出した。  それは手のひらに収まるような大きさで、光沢のある白い厚紙で出来ていた。  表面には、アルベルトの名前が美しい筆記体で書かれている。 「それは?」  疑問符を浮かべる愛に、アルベルトは彼女の手を優しく取って手のひらにそれを置く。 「僕の名刺です。持っていてください。きっと、役に立つはずですから」  そう言ってアルベルトは微笑んだ。  そして、ベンチに置かれた袋を手に取ると、彼は恭しく頭を下げて手を差し伸べる。 「では、帰りましょうか。お嬢様」  一瞬迷いながらも、愛はその手を取って家路についた。