【第三章】 「ようこそ。上瀬画伯の最新作完成披露式へ」  闇の中を、軽やかな男の声が静かに響く。  照明のついていない部屋の左側には一面ガラス張りの壁が広がり、そこから差し込む月明かりだけが、冷たく室内を満たしていた。  そして月明かりから離れるようにして、右の壁際には一人の男が立っている。  羽根飾りのついた白い帽子に白いスーツ姿の男――アルベルトは、まるで亡霊のように影の中から、その存在を淡く浮かび上がらせていた。 「アルベルト、どういうつもりだ?」  彼とは対照的に、闇に溶けない漆黒を身にまとった少女が声を上げる。  アルベルトは、その白い髪に月光を映しながら、黒の少女に微笑みかけて言った。 「お嬢ちゃんは、僕の言うことを聞いていなかったのかな? それとも言葉が難しかったかな?」 「貴様……」  闇の中から一歩を歩み出て、キリエはアルベルトを睨みつける。 「落ち着け、キリエ」  その肩をつかんで、阿戸部が横に立った。 「意味がわからないなら俺が教えてやる」 「黙れクズ!」  キリエの肘鉄が阿戸部の脇腹にめり込んだ。 「君たちは相変わらずだね」  そう言って、アルベルトは呆れた表情で二人を見つめる。  しかし、キリエの横にいるもう一つの影に目を向けると、冷ややかに言葉を放った。 「そちらのお嬢様は参加しなくていいのかい?」  声をかけられた制服姿の少女――上瀬・愛は、不安そうな、それでいてどこか待ちきれないような表情をアルベルトに向ける。 「アルベルトさん……」  祈るように一歩を踏み出して言う愛に、アルベルトは頷いて言った。 「そうですね。お父様も、君に早く作品を見てもらいたいでしょうから」  アルベルトの視線が、愛から月明かりのほうへと移っていく。  そして、それは部屋の中央に置かれた白い椅子に向けられる。  そこには白いワイシャツを着た男が、愛達に背を向けて静かに腰掛けていた。  男は振り向くこともせず、ただ幕の掛かった壁のほうを向いている。  アルベルトは、自分を睨みつけるキリエと脇腹を押さえてうずくまる阿戸部に顔を向けると、楽しげに言った。 「お二方も、今は僕ではなく作品を見てあげてください。この作品を一緒に見ることこそが、彼女のためになるのですから」  彼は一歩を下がって完全に影の中へと身を隠し、壁から下がる紐に手を掛けて式の始まりを告げた。 「さあ、紳士淑女の皆様。上瀬画伯の傑作『月虹』をご覧あれ!」  そして、終わりの幕が上がる。        ◆  それは壁一面に描かれていた。  星々をちりばめた吸い込まれるような闇を背景に、左側半分近くを使って夕焼け色の月が描かれている。そして、その左手前から右奥に掛けては、インディゴブルーを基調としたグラデーションのみで、どこまでも続くかのような大きな虹がかかっていた。  宇宙の雄大さの中には包み込むような温かさもあり、大切なものを見つめるような優しさをも感じさせる絵だった。  描かれた月と虹を月明かりが照らし、より一層柔らかく穏やかな印象を見る者に与える。  阿戸部とキリエは、押し寄せてくるその感情の波に圧倒され、そして愛は、静かに涙を流していた。  アルベルトは帽子を目深にかぶって何も語らず、沈黙が空間を満たしていく。  そして、降り注ぐ月光の音さえも聞こえるように思えた頃、一人の少女が口を開いた。 「父様。おめでとう。これで、ようやく先に進めるね」  笑顔でそう言う愛の頬には、月明かりを受けて光が流れていた。  彼女は、ずっと絵を見たままの父へとゆっくり歩みを進める。  そして父の横でひざまづくと、その手に触れようとした。  しかし愛の伸ばした手が触れたのは、白い手袋をしたアルベルトの手だった。 「お嬢様。作品に触れられては困ります」  愛の手を優しく受け止め、アルベルトは彼女に笑顔を向ける。  しかし、その笑顔は冷たく、能面のような不気味さを持っていた。 「作品? 何を言って……」  愛は、アルベルトの言葉とその笑顔に嫌な予感を覚えた。  しかし、その予感の正体がわからない。  答えを求めるように、愛は目の前にいる父の顔を見上げる。  父は、絵を見つめたまま動かない。  その肌は月明かりのせいか青白く、その目は瞬きを忘れてしまったかのように前だけを見続けていた。  一切動くことなく、ただ前だけを見て、息をする音もなく。 「父様!!!」  愛が、その事実に気づいて父に触れようと左手を伸ばす。  しかし、アルベルトはその手首をつかむと後ろ手にしてひねり上げ、一歩を下がって父から遠ざけた。  そして、彼女の耳元に優しく語りかける。 「お嬢様。お父様の遺作を汚すような行動は慎んでください」  その神経を逆なでするような楽しげなアルベルトの声さえも、今の愛にはまったく聞こえていなかった。  愛は、アルベルトにつかまれていない右手を、必死に父へと伸ばして呼び叫ぶ。 「父様!! いやああああ! 父様! 父様あああああああ!!!!!!」  しかし、愛の嘆きもその手も父には届かない。  ひねり上げられた腕のことなどお構いなしに、愛は、ただ前へと、父に触れたい、父との距離をなくしたいという一心で、その一歩を踏み出した。  その直後、愛の肩と肘から血の気が引くほどの生々しい音が立て続けに鳴り響き、その口からは獣のような悲鳴が吐き出された。 「うがああ! はっ、があああああああああああ!」  それでも愛は止まることなく、ただぶら下がるだけになった左腕を伸ばして前へと進む。  その手が父の肩に触れそうになったとき、アルベルトがため息をついて言った。 「困ったお嬢様ですね」  そして、愛の腰を後ろから抱きかかえると軽々後ろへ連れ戻す。 「アルベルト、貴様!」  キリエは剣の切っ先とともに鋭い視線をアルベルトに向けた。  その横で阿戸部は、キリエを一瞥するとアルベルトには目もくれず、ただ椅子に座る男を静かに見つめていた。  泣き叫ぶ愛を片手で抑えながら、アルベルトは冷笑とともにキリエへ話しかける。 「おっと、勘違いされては困ります。これは画伯自らが望まれたこと。僕は、そのお手伝いをしたに過ぎません」 「うそうそうそうそ! そんなことあるわけない! わたしを置いて、父様が……」  愛は大きく頭を振りながら右手で栗色の髪をかきむしり、アルベルトの言葉を必死で頭から追い出そうと否定の言葉を繰り返した。  しかし、アルベルトの声は否応なく愛の耳に入ってくる。 「この絵は亡き奥様とお嬢様、あなたなのです。そして、それをいつまでも見つめ続ける画伯がいて初めて、この作品は完成する。これこそ画伯が望んだ姿。月虹という作品の完成形なのです!」  アルベルトは恍惚の笑みを浮かべて、狂気の宿る瞳で月虹を見つめた。  しかし、愛の声が聞こえなくなったことに気づくと、うなだれる彼女から腕を放し、膝から崩れ落ちていく彼女の左腕を、アルベルトは操り人形の糸のように持ち上げる。  その痛みに、愛はくぐもったような呻き声を上げた。  それでも俯いたままの彼女の頭を、アルベルトは鷲掴みにして前を向かせる。  そして、その耳元にささやいた。 《だめですよ。式の途中で寝てしまっては》  その声に、愛の体は鼓動を打つように大きく震えた。  目は大きく見開かれ、強制的に現実を眼球から脳へと流し込まれる。  口から漏れる息は徐々に荒くなり、喘ぎ声のようになり、そして、ついには叫びとなって体から溢れ出た。 「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」        ◆ 「素晴らしい! 実に素晴らしいアートです!」  口の端から笑い声を漏らしてアルベルトが愛を見下ろす。  愛はアルベルトに片腕をつかまれたまま、ただ叫び声を吐き出していた。 「貴様、なぜ殺した!」  キリエが剣を手に詰め寄る。  しかしアルベルトは愛を盾にして、月明かりに輝く剣先の動きを止める。 「殺した? やはり、お嬢ちゃんは話を聞かない子ですね。僕は彼を殺してはいない」 「自殺を誘導しておいて何を言う!」  まったくわかっていないと、アルベルトは大きく首を振ってキリエに哀れみの表情を向けた。 「彼は死んでなどいません。むしろその逆、永遠を彼は、いや、この家族は手に入れたのです!」  恍惚の表情を浮かべながら、アルベルトは作品へと目を向ける。  そして、キリエの向けた切っ先から彼女の瞳へと視線を移し、とびきりの笑みを向けた。道化師のように張り付いた悪魔の笑みを。 「彼は自分の世界を手に入れた。それは誰にも奪われることはない。そう、この世界にさえも!」  アルベルトは高らかに笑う。 「貴様。やはり刈り取ったな⁉」  キリエの問い掛けに、アルベルトは目を合わせただけで何も応えない。  剣を腰だめに構え、キリエは腰を落として力を込めた。 「返してもらうぞ!」  しかし、アルベルトは臆することなく細めた目で見下ろし問い掛ける。 「返してもらう? 今さら、あなたが彼のクラウンを手に入れても無駄だというのに?」 「世界との繋がりを取り戻す!」  声とともに、キリエの突きがアルベルトの顔面へと放たれる。  唸る風をまとい、迷いなく発射された銀線は彼の白髪数本を闇に散らす。  しかし、それ以上白が傷を負うことはなかった。  風の動きも、その音でさえも闇へと同化し、ただ銀色の輝きだけが浮かび上がる。  アルベルトは、自分の目線に浮かぶ剣先を一瞥して言う。 「無力なお嬢ちゃんでは無理・無駄・無謀というものです」 「わらわは、もう無力ではない!」  強引に剣をなぎ払うが、アルベルトは煙のように闇へと同化し、過ぎ去る剣の軌跡を見送るように再び姿を現す。  冷ややかに見下ろすアルベルトに、キリエは剣を下段に構えて奥歯をかみ締めた。  すると、アルベルトが右手の人差し指を立てて言う。 「それでは、一つテストといきましょう」  そしてアルベルトは、つかんでいた愛の左腕を放した。  腕の主は、肩から力なく上半身を床に打ちつける。  呻き声もなく、体をくの字に折り曲げて、栗色の髪が菊の花のように床に咲いた。  その隙間からは、愛の荒い息遣いが聞こえる。  そして、その上から微かな衣擦れの音が聞こえた。  音のほうへ視線を向ければ、アルベルトが銀色の光を手にしている。  キリエが瞬間的に身構えた直後、彼女の小さな顔を左右から風が襲った。  それは温もりとともに、自分の両耳を優しく覆い隠す。  そして、阿戸部の囁きが聞こえた。 《雑音に耳を貸すな》  その声は、頭から足の先へと微かな痺れを持って全身を伝う。  痺れが収まると、キリエは頭を振って耳を覆う阿戸部の手を払った。 「わらわの耳を無理矢理ふさぎおって、貴様はドSか⁉」 「うっわ。おまえにドS認定されるとか、傷つくわー」  額に手を当てて言う阿戸部に、キリエは振り向きもせず腕の振りだけで剣先をその首筋に向けた。  阿戸部がお手上げのポーズをとると、それを見ていたアルベルトが小さく笑って二人に言う。 「さすがに簡単にはいきませんか」  音叉を親指と人差し指に挟んで掲げるアルベルトに目を向けながら、キリエは床に倒れたままの愛を視線の端に捉えた。  彼女の体は激しい痙攣を起こし、髪の隙間から覗く眼球は、何かを求めてせわしなく動き回っている。 (父様が死んだ? わたしを愛してくれた父様が……。わたしを? 違う。父様が愛していたのは母様。わたしの中の母様。愛されていたのは母様。じゃあ、わたしは?)  引きずるようにして、愛の頭だけが絵の描かれた壁へと向きを変える。  そして、その視線の先に月虹を捉えた。 (あれは、母様とわたし?)  そして今度は、椅子のほうへと頭を動かす。  そこには、変わることなく前を見続ける父の姿がある。 (父様は、わたしを見てない。見てくれない。なぜ? どうして?)  愛の意識が、その答えを拒絶するように闇の中へと沈んでいく。 (ここにいる、わたしは、誰?)  そして闇の中から生まれ出るように、愛はゆっくりと立ち上がった。        ◆ 「トウサマハ、ドコ?」  立ち上がった愛の第一声は、それだった。  両腕は力なく垂れ下がり、俯いた顔は髪に覆われて表情が見えない。  しかし髪の隙間から覗く視線だけは、何かを探すようにせわしなく動いていた。 「もう、君には見えないようだね」  アルベルトの声に、愛が首だけで振り向く。 「トウサマヲ、カエシテ」  愛の問い掛けに、アルベルトは首を横に振る。  そして、その指をキリエに向けて言った。 「それは僕ではなく、あのお嬢ちゃんに言ってあげてください。そのために彼女は、ここにいるのですから」  その言葉に愛は、体をふらつかせながらもキリエへ向かって歩き出す。 「トウサマヲ、カエシテ。ネエ、カエシテヨ」  向かってくる愛に対して、キリエはとっさにアルベルトから愛へと剣先を向けた。  しかし、すぐにそれは黒をまとって傘へと戻り、キリエは片膝をついて頭を下げる。 「すまない。わらわには貴様の父を返してやることは出来ない」  その言葉に愛の動きが止まる。  キリエは顔を上げて、まっすぐに愛の目を見て言った。 「だが貴様は、まだ間に合う!」  泣きそうな顔で手を伸ばすキリエに、しかし愛は、首をかしげて呪いのような言葉を吐き出すだけだった。 「ナニヲ、イッテルノ? トウサマヲ、カエシテヨ。ハヤク。ハヤク、カエシテヨ」  迫ってくる愛に、キリエは立ち上がると一歩を下がり、黒兎の腹へと手を入れて何かを取り出そうとする。  しかし、それを止めるように阿戸部は彼女の肩をつかんで言った。 「手遅れだ」 「そんなことは!」  とっさに否定しようと阿戸部を見れば、彼は愛を見たまま、自分の肩に置いた手に力を込める。  そして、その顔には獣じみた笑みが浮かんでいた。  湧き上がる衝動をこらえるように、阿戸部はキリエとともに下がりながら、ゆっくり言葉を口にする。 「あの状態の人間に、薬は効かない」 「そんなことは……、わかっている!」  キリエは黒兎を強く抱きしめ奥歯をかみ締めると、否定ではなく肯定の言葉を吐き出した。  目の前には変わり果てた姿の愛が、今も足を引きずるようにして距離を詰めてくる。 「じゃあ……」  阿戸部は変わらず愛を見たまま、唸り声を漏らすように問い掛けた。 「おまえが殺すのか?」  声とともに向けられたまとわりつくような冷たい視線に、キリエは肩を落とすと黙って黒兎から手を抜き出した。 「それでいい。あいつは、もう俺の獲物だ」  楽しそうに言う阿戸部の声を聞きながら、キリエは悲しげに愛を見つめた。  その様子を見ていたアルベルトは、声を大きくして愛に問い掛けた。 「お嬢様、どうしますか? 彼女はお父様を返してくれないようですよ?」 「やめろ!」  叫ぶキリエを愛の瞳が無言で睨みつける。  その後ろで、アルベルトは愛へと高らかに言葉を放ち続けた。 「彼女も、そして隣の彼も、あなたとお父様との再会を叶えてはくれない! その手段も力もあるというのに!」 「うるさい! 黙れと言っている!」  愛の横をキリエは駆け抜け、手にした傘がアルベルトの胴をなぎ払うように振り抜かれる。  それは軌道の途中で耳を突き刺すような金属音を響かせた。  しかし音はすぐに無音へと収束し、やはり彼には届かない。  剣はアルベルトの人差し指と親指によって軽くつままれ、彼の首へと剣線を向けつつも、キリエの力ではそれ以上動かすことが出来なかった。  愛がゆっくりと振り向き、キリエのほうへ手を伸ばすが、それはアルベルトの視線によって止められた。  アルベルトは目の前で殺気を放つキリエを無視して、椅子に座ったまま遠くを見つめる登へと視線を向けて話し始める。 「彼の協力で、僕はまた世界へと一歩近づいた。本当に彼には感謝しています」  余裕を見せるアルベルトに、キリエは剣に力を込めながら殺気を強くして言った。 「協力だと? ふざけるな! 都合のいいように人を操り、その上で世界との繋がりさえも奪っておいてよく言う!」  しかしアルベルトは、一瞬哀れむような目をキリエに向けただけで、すぐに穏やかな表情をつくると、今度は外の月へと目を向けて言う。 「この調子でいけば、僕が真の意味でこの世の死神となる日も近い」 「貴様は絶対に止める!」 「それは、僕のテストをクリアしてから言ってください」  アルベルトは小さくため息をつくと、キリエの剣から指を離した。  解放された力はキリエの意思に導かれ、迷いなく白い首筋へと振り抜かれる。  だが切り裂いたのは、またしても暗闇だけだった。 「またオウル・ラビットの力か⁉」  キリエの悔しそうな声に、姿なきアルベルトの声が応える。 「テストの試験管は、お嬢様に務めていただきます。僕は友人の傑作を見届けましたし、必要なクラウンも手に入りましたので、ここで退場させていただきます」  そして、アルベルトは愛へ最後の言葉を送った。 「お嬢様。お父様との再会を望むのであれば、彼らを力尽くで従わせることです」  言葉の残滓が消えると同時に、それまで止まっていた愛が再び動き出す。 「キリエ、こっちだ!」  その声にキリエは、愛の横を再び高速で駆け抜け背後へと回る。  そして、愛から距離をとっていた阿戸部の後ろへと下がった。 「まったく、前置きが長いぜ」  ゆっくり方向を変える愛に対して、阿戸部がステップを刻み始める。 「トウサマニ、アワセテ……」  二人へと向き直った愛は、それまでとは違い力強く歩き出した。  その動きを、彼女の想いが加速させる。 「トウサマ、カエシテ……」  それは歩行を疾走へ。 「トウサマ……」  疾走から跳躍へ。  そして、 「カエセエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」  咆哮とともに拳となった。 「さあ、楽しいおしゃべりの時間だ」  向かってくる愛へと、楽しそうに阿戸部が言う。 「聞かせてもらうぜ?」  そして、大きく息を吸ってノイズを放つ。 《おまえの全てを!》  狂った世界の扉が開く。        ◆  そこは、赤黒い大地にインディゴブルーの濃い霧が立ち込める場所だった。  その霧の中をよく見れば、幾つもの大きな鏡が宙に浮いている。 「随分と殺風景だな」  それは地面の近くから聞こえてきた。 「阿戸部。一応言っておくが、余り壊しすぎるなよ」  阿戸部の声より高い位置から、キリエは彼に注意する。  二人の影が、霧の薄い場所へとやって来た。  キリエは片手に剣を提げ、その腕には装飾の施された小さな銀色の籠手を着けていた。  そして、フリルのついた黒いワンピースの胸元には、小さな胸当てにも似た銀の首飾りをし、頭には黒い宝石で出来たティアラを乗せている。 「それは相手次第だな」  阿戸部の声にキリエが下を向けば、そこには片耳の黒兎がいた。  黒兎はぴょこぴょことキリエの横を歩いている。 「それより……」  そう言って黒兎がキリエを見上げる。 「おまえのほうこそ、取り乱してあいつを一刀両断するなよ?」 「するか! このたわけが!」  繰り出されたキリエの蹴りを、黒兎は軽々とかわす。  そして、折れ曲がった耳をまっすぐに立てると、黒兎は口の端をつり上げて言った。 「そろそろ近いな」  阿戸部の声に、キリエも耳を澄ます。  すると、荒い息遣いとともに声が聞こえてきた。 「トウ、サ、マ」  黒兎は、その耳を器用に動かして、キリエに止まるよう合図を送る。  キリエは立ち止まると、自分の足下に剣を突き刺した。  するとキリエを中心に、半径二メートルほどの黒いシャボン玉を思わせるような半球が彼女を取り囲む。  それを確認すると、黒兎はキリエの前で小さなシルクハットを脱いでお辞儀をする。  そして、半球の中から霧の向こうへと跳ねていった。        ◆ 「トウサマ。トウサマハ、ドコ?」  愛は霧の中をさまよっていた。  左腕をだらしなくぶら下げたまま、焦点の定まらない瞳で周囲を見回している。  周囲の鏡に人影が映るたび、愛は血に餓えた獣のような瞳で、その鏡をのぞき込む。  しかし、それが父親でないと知るたびに、愛は動く右腕で鏡を叩き壊していた。  愛の手からは血が滴り落ち、それが描いた線上には鏡の破片が散乱している。 《愛》  その声に愛の動きが止まる。 《上瀬・愛》  再び聞こえる声に周囲を見回すが、声が響いてどこから聞こえてくるのかわからない。 《おまえは、誰だ?》  愛は近くに見えた人影へと跳びかかるが、それは鏡で、つかんだ途端に砕け散る。 「ダ、レ?」  血まみれの手を見つめて、愛はつぶやく。  すると彼女の目の前に、新しい人影が現れた。  それは自分と同じくらいの背で、学生服を着ているような姿形をしている。 《いやらしい女》 《学校の恥》 「ナニ?」  それは男の声であり、女の声でもあった。 《きっと、あいつヤリまくりのビッチなんだぜ》 《あんな気持ち悪いことして、なんで出てこれるの?》 「チガウ……」  頭を締め付けるような声に耳をふさぐが、その声は頭に直接響いて離れない。 《絵のモデルとか。ブスのくせに、いい気になってんじゃないの?》 《あんたのせいで、こっちまで変態扱いされるじゃない! 消えてよ!》 《存在自体が邪魔なんだよ! 学校に来んな!》 《まったく、いい迷惑だ! 死ね!》 「イヤ……、イヤアアアア!」  愛が影を殴りつけると、その影は霧とともに拡散した。  そして、また別の人影が浮かび上がる。  今度は、背の高い大人を思わせるものだった。 《どんな躾を受けたのかしら?》 《娘の裸を人前にさらすなんて、父親は何を考えているんだ!》  また、頭に直接声が突き刺さる。 《あんな無能のせいで、うちの子に悪影響が出たらどう責任とってくれるの?》 《汚らわしい子》 「イヤダ……」 《売女は、即刻退学にしろ!》 《所詮は、自殺するような母親の子供ということですよ》 「ヤメロオオオオ!」  否定とともに突き出された拳は霧を吹き飛ばし、今度は影を捕らえて鈍い音を響かせた。  それは何かが潰れ砕ける音と、息を吐き出す音だった。  影は拳を受けたまま、離れることなく愛のほうへと倒れ込む。そして拳を支点に体をくの字に曲げると、上半身だけがさらに愛の眼前へと落ちてきた。  そこにある顔を見て愛は息をのみ、その表情は人のそれに変わる。 「母様?」  それまでとは違う人の声で、愛はその人を呼んだ。  母は愛の耳元に口を寄せるように、完全に上半身を預けてくる。  母の体は急速に体温を失い、それと同時に愛の体中からも血の気が引いて、全身が小刻みに震え始める。  それでも母親の腹に突き刺さった自分の拳の感触だけは、やけに温かく感じていた。  しかし、耳元に響いた嘲るような母の笑い声に、その感触も一瞬で凍りつく。  次いで、何かを言おうと大きく息を吸う音が聞こえ、愛はこれから吐き出される言葉を想像して恐怖した。  逃げ出したいのに、体が硬直していうことをきかない。  息を吸う音が止まる。  そして言葉が吐き出される。凶器のような、相手を傷つけるだけの言葉が。 《裏切り者》 「いや……」  否定できない。 《わたしから愛する人を奪って》 「やめて……」  止まらない。 《その人の命も失った》 「聞きたくない……」  聞いてはいけない。 《あんたなんか》  でも、動けない。 《産むんじゃなかった》 「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  声にならない叫びとともに、母親の体に突き刺さった愛の拳が振り抜かれる。  それは大砲のような音を響かせ、母の体は霧の向こう側へと放物線を描いて消えた。  愛は、その放物線の彼方を見つめたまま、膝を落として動かなくなる。  そんな彼女の背後から、再び誰かがやって来た。  しかし、確実に近づいてくる足音にも、彼女は虚空を見つめたまま動かない。  足音は愛の真後ろで止まると、一言喉を震わせた。 《愛》  それは求めていた人の声、愛しい人の声だった。  愛は体を動かそうとしたが、動かせたのは僅かに眼球だけだった。  彼女は、眼球を精一杯動かして背後へと視線を送る。 (と、う、さ、ま)  それは登の顔だった。  そのことを意識した途端、登の顔がみるみるうちに歪んでぼやけてしまう。 (行か、ない、で)  その想いに応えるように、輪郭の曖昧になった登の顔が近づいてくる。  愛の心に、何か温かいものが再び芽生えようとしていた。  登の顔は愛の耳元に口を寄せ、登の声でゆっくりと、しかし確実に音を刻んで囁いた。 《おまえは、だ・れ・だ?》  愛の眼球が、振り切れんばかりの勢いで声の主へと視線を走らせる。  だが、それは決して届かない。 (いや……。な、ん、で……)  涙は既に枯れ果て、乾いた眼球が悲鳴を上げる。  しかし愛は、言葉の意味を確かめようと、お構いなしに登のほうへと眼球を回す。  そして、何かが切れるような音が耳の奥で聞こえた直後、愛は視界を失った。  その瞳からは涙のように血が流れ出し、眼球全体を覆っていく。  眼球は燃えるように熱くなり、その血は頬と唇を濡らし、さらに下へと体を伝っていく。  意思を表に出せなくなった彼女の体へと、それでも登の声は浸透していく。 《おまえは能なしの役立たずだ。誰かを幸せに出来る才能もなく、自分を犠牲にしたところで誰も救えない。自分を捨てて、おまえは何にもなれなかった。じゃあ、おまえは誰だ。全てを失ったおまえは、一体誰なんだ》 「あ、ああ……、あ、あ……」  時折口に入った血を吐き出しながら、愛は膝立ちで上を向いたまま、体を激しく震わせていた。 (誰? わ、たし、は? だ、れ?????????…………)  突然、愛の体から全ての力が抜け、人影のほうへと仰向けに崩れ落ちていく。  それを避けるように人影は一歩を下がるが、それを見下ろす顔は閉じた瞳から赤い涙を流し続ける愛へと向けられていた。  微かに痙攣するそれを見下ろしていたのは、登ではなく阿戸部の顔だった。  ワイシャツの腹部から染み出る血を気にすることもなく、彼は無表情に愛を見下ろす。  そして、高鳴る鼓動を抑えるように笑いを漏らした。  動かなくなった愛の腕や顔からは大量に血が流れ出し、急速に彼女の鼓動を奪っていく。  そして、ついに彼女の鼓動は消え、霧の中に静寂がやってくる。 「さあ、来い!」  阿戸部は静寂に対して自分の声で叫んだ。  霧が震え、血だまりに波紋が広がっていく。 「解放しろ!」  その咆哮に、空間が生き物のように鼓動を刻み出す。  鼓動は際限なく加速し、それに合わせて血だまりは小さくなっていった。  それは愛の体へと吸い込まれるように戻っていき、それと同時にまぶたの内側では眼球が激しく蠢き、左腕は暴れ回って関節をはめ込んでいく。  鼓動は高音の響きとなり、阿戸部は叫んだ。 《おまえの魂を!》  その呼びかけに愛の目が開いた瞬間、その体は阿戸部の前から音もなく消え去った。        ◆  それは阿戸部の右からやって来た。  まずは大地を歪ませる低い音から始まり、次に霧を弾く爆発音となる。 「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」  敵意を剥き出しにした鳴き声とともに、愛が地面を低空で突っ込んでくる。  そして、その右手は阿戸部を捕らえる牙のごとく伸ばされる。 「いいね」  阿戸部は左へと軽く避けて一歩を下がる。  通り過ぎていく愛を目で追えば、着地した瞬間に方向転換し、再び阿戸部のほうへと突進してくる。  阿戸部は近くに浮かぶ鏡を手にすると、自分の前へと移動させる。 「ガアア!」  それは愛の一撃を受けた直後、高く震える金属音を響かせ霧散した。  瞬間的に発生した鏡の霧は、その形を崩しながら下へとゆっくり落ちていく。  そして、小さな砂の山を地面に残すだけとなった。 「グルルルルルル!」  愛は威嚇音を吐き出しながら、砂の山から前へと目を向ける。  そこには鏡を横に引き寄せて立つ、阿戸部の姿があった。 「怖いねえ」  楽しそうな笑みを浮かべながら、阿戸部はそう言って鏡を愛へと投げつける。  愛は、それを避けることなく腕を振るって砂へと帰す。 「それ。次だ!」  何枚も何枚も、阿戸部はランダムにステップを刻みながら鏡を愛へと投げていく。  足を狙い、背後を狙い、時には三枚同時に投じていく。  それを愛は、蹴りで砂に帰し、裏拳で砂に帰し、咆哮で砂に帰していく。 「いやー、躊躇なく壊してくね。あれも自分だってのに」  見える範囲の鏡を投げ尽くして、阿戸部は愛に向かって拳を構えた。 「ウォーミングアップとしてはちと物足りないが、時間も限られてるからな」  ステップを刻む阿戸部の足下には、血で湿った足跡が幾つも重なっていた。  ともすれば乱れそうになる息を整えながら、阿戸部は口角をつり上げる。  目の前の愛は唸り声を響かせながら、阿戸部をじっと見つめていた。 「さあ、メインディッシュの時間だ!」  阿戸部は息を止めると、地面を蹴り出し愛へと加速する。  すぐに愛との距離はなくなり、阿戸部の拳が愛の顔面へと伸びていく。  その拳を、愛は一歩を下がって頭突きで迎え撃つ。  阿戸部の拳と愛の額がぶつかる。 《壊れろ!》  それは、金属同士がぶつかるような音を響かせて、お互いをはじき返した。  しかし阿戸部は、その反動を利用してもう一つの拳を打ち出す。  愛は倒れそうになる体を下半身で押さえ込み、無理矢理のけぞる上半身を戻す勢いで、自身の拳を押し放った。  拳同士がぶつかり合い、再び高い金属音が空間を突き抜ける。  二人は一歩を引くことなく、お互いを殴り続けた。 《壊れろ! 壊れろ! 壊れろ! 壊れろ!》 「グルアアアアアアアアアアアアアアアア!」  連続し加速を続ける金属音は、やがて一つの鳴り止まない音となって二人を縛り付ける。  それは長く長く鳴り続け、二人の拳から漏れ出る血を赤い霧へと変えた。 《壊れろ!!!》  霧は阿戸部の拳に叩かれ、その粒を散弾に変えて愛の服と剥き出しの肌を切り裂く。  そんな高音の吹き荒れる中で、阿戸部は何かが軋む音を聞いた。  それは自分の拳へと伝わる音。耳ではなく体を伝わる生の音。  そして、愛の左拳が阿戸部の拳に触れた途端、彼女の左腕は内側から皮膚を引き裂かれてはじけ飛んだ。 「ウガアッ!」  体勢を崩してがら空きになった愛の胸へと、阿戸部は右の拳をハンマーのように振り下ろす。 《壊れろ!》  しかし、その拳は地面を半球状に抉っただけだった。  視線を前に向ければ、骨を剥き出しにした左腕をぶら下げて、愛が荒い息をつきながら阿戸部を睨みつけている。 「おいおい。楽しいおしゃべりの最中に、どこ行ってんだよ!」  阿戸部が愛へと突っ込んでいく。  愛は大きく息を吸うと、阿戸部に対して咆哮を放った。 「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」  阿戸部の前進は音圧によって阻まれ、全身の皮膚が細かく張り裂けていく。  全身から血をにじませながらも、阿戸部は歩みを止めずに進み続ける。  阿戸部は確実に愛との距離を縮め、彼女の咆哮は着実に力を失っていく。  愛の咆哮が鳴り止むと、阿戸部はぼろぼろになった血まみれのワイシャツを見て「これはひどいな」と呆れた声でつぶやいた。  そして、突き刺すような視線を向けてくる愛を真正面から睨み返すと、苛立ち混じりの低い声で言った。 「触れずに俺をヤろうとか、つまんねえことすんなよ。直に来いよ。骨も内蔵も全てをさらけ出して触れ合おうぜ!」  阿戸部は、さらに一歩を踏み出す。 「アアアアアアアア!」  その動きに、愛は叫びながら阿戸部に跳びかかった。  しかし阿戸部は棒立ちのまま、頭上へと降ってくる愛を見上げて動かない。  愛は阿戸部の上半身に抱きつくと、叫び終えた口を彼の肩に突き刺した。  そして、滴る血をすすりながら阿戸部の肩を食い千切る。 「そうだ。それでいい」  阿戸部は垂れ下がった左腕ごと愛を抱きしめると、恍惚とした表情で彼女に話しかける。 《もっとヤろうぜ》  囁くような声とともに、阿戸部は愛の腹へと拳を叩き込んだ。  その衝撃で、愛は口に含んでいた肉片を血とともに吐き出す。  愛は阿戸部から離れようとしたが、体が痙攣して思うように動かない。  呻き声を上げ続ける愛の右手をつかむと、阿戸部はそれを無造作に引っ張り始めた。 《壊れろ》  声とともに腕が千切れて投げ捨てられる。 「!!!!!!!!!!!!!!」  阿戸部は、声にならない叫びを上げる愛から腕を離した。  愛の体は支えを失って、地面に向かって落ちていく。  しかし、落ちきる前に阿戸部はその頭を右手で鷲掴みにし、屠畜場を流れていく家畜のように彼女を持ち上げた。  彼女の全身をなめ回すようにじっくりと眺め、血に濡れた左手で、柔らかな頬から細い首筋、控えめな鎖骨、張りのある胸、なだらかな腰へと線を描くように撫でていく。  そして、その手は愛の太ももの付け根をつかんで止まった。  阿戸部は、笑みとともに力ある声を吐き出す。 《壊れろ》  握り込まれた手指の間からは血肉が吹き飛び、足が一本地面へどさりと落ちた。  陸に上がった魚のように跳ねる肉塊を見下ろしながら、阿戸部は一息ついて言う。 「まあ、こんなところか」 そして今度は、頭をつかんだ右手に視線を向け、その手指に力を込め始める。  痙攣が治まってきたのか、愛は白目をむいたまま残った手足をばたつかせ、血や肉の破片が阿戸部の顔に降り掛かる。  しかし、阿戸部は気にすることなく力を放つ。 《楽しかったぜ》  愛の頭が、割れた水風船のように中身をぶちまけた。  阿戸部は、その手から落ちていく愛だったものには見向きもせず、手についた温かな残滓を見つめると、それを綺麗に舐めとっていく。  喉を落ちていく感触に身震いしながら、阿戸部は体から湧き上がる歓喜が溢れないように目を閉じ、上を向いてゆっくり息を吐き出した。  そして、再び目を開くと両腕を広げ、晴れやかな表情とともに言葉を口にする。 《オープン・ザ・ワールド》        ◆  そこは暗闇だった。 「終わったか」  キリエは周囲の変化を確認すると、剣を引き抜いて歩き出す。  その視線の先には、青白い光に照らされた場所があった。  光の中心には白い柱のようなものが浮かび、光の縁には黒い兎の姿があった。  黒兎の隣に来ると、キリエは柱を見ながら話しかける。 「楽しめたか?」  黒兎はキリエのほうを見ることなく、白い柱のほうを向いたまま「ああ」と短く阿戸部の声で満足そうに答えた。  そして、黒兎は柱のほうへと跳ねていく。  光は直径六メートル程度の丸い泉の中から垂直に湧き上がり、その中心にある柱の高さは十メートル近くあった。  柱は大小様々な六角柱で構成され、二メートル近く高い位置に浮いている。  泉の縁から柱へと続く細い道を、キリエも黒兎の後を追って歩いて行く。  そのとき、冷たく清んだ金属音が空間に響いた。  それは柱を中心に広がり、泉の表面に波紋を走らせる。  波紋を遡って柱を見れば、柱の底はわずかな傾きを持った円錐状で、その表面を光が中心へと伝っていく。  光は中心で雫となり、そして泉へと落ちていった。  再び闇の中を、透き通る高い音色が響き渡る。  その音を聞きながら、キリエは目の前に現れた階段を上がった。  柱の底面近くまで上がると、黒兎が柱の前で待っている。 「これが愛のクラウンか。意外にでかいな」  キリエが柱を見上げながらつぶやくと、「こっちだ」という阿戸部の声がやってくる。  声のほうへ行けば、黒兎が上を見上げて柱の一点を耳で指した。 「間違いない。オウル・ラビットの羽だ」  柱の三メートル上方に刺さる白い羽を見て、キリエは淡々と言った。  その言葉に、黒兎はその場で軽く飛び跳ねながら彼女に告げる。 「じゃあ、抜くぞ?」 「気をつけろよ」  羽を見上げたまま、キリエは異論はないと注意で返す。  そして黒兎は、羽へ向かって飛び跳ねた。  それは天へと落下するように、一気に羽へと向かっていく。  兎の体は一度羽を通り過ぎ、数メートル先で停止すると、今度はゆっくり羽の前へと落ちていった。  黒兎は、目の前に来た羽をその手でつかむ。  そして落下に任せて羽を引き抜こうとした瞬間、手にした羽が七色の光を放って震え出した。 「阿戸部!」  キリエが自分の名を呼ぶが、黒兎は慌てることなく《黙れ》と羽に命令する。  それだけで羽は落ち着きを取り戻し、光を失い始めた。  そして大人しくなった羽を、黒兎は力任せに引き抜いた。  すると、耳を突き刺すような金属音が引き抜かれた柱から闇へと走り抜ける。  とっさに耳を押さえたキリエの目の前に、黒い影がぽとりと落ちてきた。  目を回しながら痙攣する黒兎に、キリエが怒りの声を降らす。 「気をつけろと言っただろ! この駄兎が!」  そう言いながら、キリエは黒兎が手にした羽を見る。  その羽の根元には、柱の破片がついていた。 「貴様! クラウンを傷つけたな⁉」 「うるせえな」  折り畳んで耳を塞ぎながら、黒兎は起き上がって手にした羽を見た。  羽は赤黒く染まって影のようになり、揺らめくと陽炎のように消えていく。  一方、柱の破片は光の雫をこぼしながら、白い粉となって散っていった。 「これでパペットが呼び出せなかったら、愛は死ぬことも出来なくなるんだぞ!」 《うるせえな!》  阿戸部の声に、柱の表面がひび割れた。 「貴様!」  キリエが剣を黒兎に突きつけて叫ぶ。  黒兎は挑発的な視線をキリエに向けると、拳を構えながらステップを刻み始めた。  そのとき、対峙する二人の横で柱に変化が現れた。  柱の表面を青白い光が走り抜け、清んだ金属音のような声が空間に響き渡る。 《クラウンノブブンハカイヲカクニン。フクゲンシークエンスヲジッコウシマス》 「何が起こった?」  キリエの疑問に、柱は光を走らせながら一つの変化で答えた。  柱が色を失っていく。 「消えるのか?」  キリエが呆然と見つめる横で、黒兎は疑問を口にする。  しかし柱は途中まで色を失うと、透き通る音色とともにその姿を二重にした。  そして傷ついた柱は色を失い続け、もう一つの柱が色を取り戻していく。  色を完全に取り戻した柱からは青白い光が消え去り、それは傷つく前の状態へと戻っていた。 「復元能力……。こいつ、アペンドか⁉」 「やっぱり面白い奴だな」  驚くキリエに、黒兎は柱を見ながら口の端をつり上げた。  そして、キリエの肩をその耳で叩いて言う。 「さっさとパペットを呼び出してやろうぜ」 「まったく、貴様という奴は……」  気楽に言う黒兎にため息をつきながら、キリエは柱に剣を向けた。  そして表情を引き締めると、剣の先端を柱の中へと押し進めていく。  剣は柱を傷つけることなく、水面に潜り込むようにして入っていった。  剣が三分の二程度入ったところで、キリエは息を吸って声を放つ。 《真なる仮初めの姿をここに》  声は剣を伝わり、柱の中へと響いていく。  柱全体へと声が響き渡ると、柱はその身を光に変えて急速に小さくなり始めた。  それは高さが十五センチほどになると、光を失ってインディゴブルーの小さなレインコートを着た少女に姿を変える。  そのフードには耳ではなく、まん丸の目玉が乗っかっている。 「これは、カエルか?」 「カエルだな」  そう言って見下ろしてくる剣を携えた少女と黒兎を、栗色の髪の少女はカエルの格好のまま不思議そうに見上げていた。