【序章】  曇天の下、糸のような雨が幾重にも降り注ぎ、湿り気を帯びた重い空気が立ち込めていた。  一面ガラス張りの白い直方体の下、一階の縁側に喪服姿の男が座っている。  男はあぐらをかいて空を見上げ、焦点の定まらない瞳で遠くを見つめていた。  男の頬を、不意に一筋の細い光が伝う。  それは徐々に太く歪んだものとなり、奥歯をかみ締める音に混じって、こらえきれなくなった嗚咽がこぼれ落ちた。 「私は……、ただ、君が見ていたあの虹を、あの笑顔を、見て、いたかった」  弔問に訪れた人々は既に帰路につき、線香の香りと雨の匂いの中、男は膝の上に置いた拳を握りしめながら泣いていた。 「大切な方だったのですね」  聞こえてきた声は透き通るような色をしていた。しかし、それは雨音の中でも消えることのない、凛とした強さを感じさせる声だった。  声の主は、時折吹く湿った風に純白の長髪をなびかせ、髪と同じ白いスーツを着ていた。  男の隣に立ちながら、スーツ姿の青年は男と同じ空を見上げている。 「ああ、彼女は私の虹だった。しかし彼女は、私が絵を描けば描くほど笑わなくなってしまった。そんな彼女を元気づけようと、手によりをかけて料理をつくってみたりもした。彼女は、余り料理が上手でなかったからね」  力なく笑う男に、青年は何も言わずに空を見つめ続ける。 「愛が生まれてからは、少しは笑うようになってくれたのだが……、それも、愛が高校に通い始めてからは無くなってしまった」  男は俯き、肩を震わせる。  苛立ち、悲しみ、怒り、ふがいなさ。そんなもどかしい気持ちは言葉となり、縁側を拳が叩きつける。  その音は、雨の中へと虚しく響き続けた。何度も、何度も。  そして、再び訪れた雨音が支配する静寂の中、男は顔を上げて空へと問い掛ける。 「私は、何のために、これから絵を描けばいいのだ」  そのとき、一つの音が鳴り響いた。それは鈴(りん)の音のように心の水面に波紋を生み、しかし、それだけで終わらない。 「あなたには娘さんがいるではありませんか。彼女の中には、奥様が今も生きている。そうではありませんか?」  青年の声が、波紋の中へと落ちていく。  それと同時に、再び澄んだ音色が鳴り響く。  青年の手には、指の長さほどの小さな音叉が一つ。  音叉の周囲には七色の光が淡く揺らめき、音はいつまでも響き続ける。  青年の言葉に男は喜びの表情を浮かべ、しかし、すぐにそれは不安へと沈んでいった。 「今まで、愛のことは夕美に任せてきた。男の私に、それがうまくやれるだろうか?」  こちらを見上げて言う男に、青年は優しくほほえみかける。 「大丈夫。奥様と同じように、ただ愛してあげればいいのですから」  青年の声は音叉の音とともに、男の心を包み込んでいった。