【第四章】 「どうして?」  ヒガンの悲しそうな声が問い掛ける。  僕は無言で顔をそらし、乾いた地面を見ていた。 「ねえ、何か言ってよ。どうして、急にそんな冷たいことを言うの?」 「いいから、さっさと行けよ」  僕は感情を殺して、低い声でヒガンの問いかけを無視して言った。  舗装されていない通りの左右には店舗が並び、人やバイク、自転車が次々と通り過ぎていく。  彼女は何も言わず、視線に入る紅い髪が不安げに揺れるのを見ながら、僕は背を向けることもできずに立ち尽くしていた。  早く行ってくれ。  僕は心の中で願い、拳を握りしめる。  ヒガンを一人で冬の海に行かせるというのは我ながら酷なことだと思うが、さらに魚を捕ってくるように言ったのは言い過ぎだったろうか。いや、そんなことはない。やり過ぎなくらいがヒガンのためなんだ。  そう自分に言い聞かせて、僕は彼女がいなくなるのをじっと待った。 「うん。わかったけど……」  ようやく行く気になったかと、彼女の返事に僕は微かに視線を上げる。そして、 「迎えに来てくれるよね?」  潤んだ瞳で尋ねる彼女に思わず指先が動いて、僕は慌ててズボンのポケットに手を突っ込んだ。 「気が向いたらな。大物でも釣れれば見に行くかも」 「……うん。頑張ってみるね」  顔を背けて精一杯突き放すように言った僕に、ヒガンは小さな声でそう言って、何度も振り返りながら離れていく。  元気なく垂れ下がるツインテールが人波の中に消えていくのを横目で見ながら、僕は溢れ出る気持ちを無視しようとゆっくり目を閉じた。 「何やってんのさ?」  暗闇の中、後ろから聞き覚えのある少し乱暴な女の声が耳に届く。  張っていた虚勢から空気が抜けるように、僕は肩を落として声の主へゆっくりと振り向いた。そこには、ヒガンとは対照的に落ち着いた白髪が、猫のような好奇心に溢れた黄色い瞳を向けて僕を見ていた。  なんで、こういうときに限って、こいつは……。  予期せぬ親友の登場に、こらえていた気持ちがこぼれそうになる。 「おいおい、いきなり捨てられた子犬のような顔して、どうしたのさ? そうだな、取り敢えず、あそこに入って落ち着こうか」  そう言ってキクノが指さしたのは、マーメイドという名のキクノが馴染みにしている喫茶店だった。        ◆  僕はキクノに手を引かれて、幻想的なステンドグラスのはめられた木枠の扉を横目に店内へと入っていく。ステンドグラスには、夜空の下で月に祈る人魚の姿が描かれていた。  カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターが、僕らに気づいて微笑みながら軽く頭を下げる。僕はお辞儀を返しながら、キクノに連れられて奥の少し薄暗い席に座った。そして、注文を取りに来たマスターに僕はミントコーヒーを、彼女はブラックコーヒーを注文した。 「相変わらずハーブが好きだね」 「落ち着くんですよ」  落ち込みながら力なく僕は答える。 「いつもヒガンに振り回されてて落ち着かないってか?」  からかうように言うキクノの言葉は、今の僕にとっては呪いのように体を縛りつけるだけだった。 「まったく、一体どうしたんだよ」  心配してくるキクノに、僕は助けを求めるように口を開いて、 「ヒガンが……」  それ以上は言葉が続かなかった。  黙り込む僕の言葉を引き継ぐように、キクノが聞いてくる。 「そういえば、ヒガンはどこに行ったんだ?」 「冬の海です」 「冬の海? 夏の海じゃなくて? あんなところに何しに……」 「ちょっと、魚を捕りに……」 「あそこは飛び降りのメッカだろ? それに、あそこにいる魚って言ったら人食い巨大魚ばかりじゃないか」  僕は「ええ」と答えて、きれいに磨かれたテーブルの上に視線を落とした。そこに映る自分の顔が余りに情けなくて、思わず苦笑が漏れる。 「本当に、どうしたんだ?」 「実は……」  手は痺れたように震え、弱々しく声がこぼれ落ちる。 「ん?」  短く聞き返す彼女に、僕は絞り出すように、その言葉を口にした。 「カイホウシンドロームなんです」  拳を握りしめながら嗚咽混じりに出た僕の言葉は、キクノの息を一瞬止めた。 「誰が……」 「ヒガンが、です」  ぼやけた視界の先で落ちた涙はテーブルの上に広がって、何もかもが歪んでいく。もしかしたら、これが本来の世界なのかもしれない。今まで目をそらしていた僕とヒガンの世界が、きしんだ音を響かせたような気がした。 「なんで……、あんなに楽しそうだったじゃないか……」 「だから、かもしれません。楽しい時間ばかりでしたから。本当に……」 「でも、ヒガンはあんたを喜ばそうと、それこそなんでも、ときにはあんたを困らせるくらい一生懸命にやってたじゃないか。無気力な様子は少しも……、それなのになんで……」  現実を否定しようとするキクノの言葉から焦りが漂い、それは僕に虚無感を突きつけた。 「そう、ですよね」  僕はヒガンとの生活を思い出す。  あらゆる絶叫アトラクションを連続して体験した絶叫弾丸ツアーに、味覚の限界を探る味覚爆発フルコース。そして、捕まった瞬間にいろんな意味でヤラレるヤンデレストーカーサバイバル24。どれも、一度体験したら忘れられないデートの数々だ。 「本当にいろいろありました。それに、どれもヒガンは僕を喜ばせようと一生懸命で、本当に楽しそうでした。だから、どれも大変だったけど僕も嬉しかった。でも、いつしかそれも彼女にとっては、ただの日常になっていたんです」 「だったら、今度はあんたが……」  そこまで言って、キクノはため息をついた。  視線を上げれば、彼女は力なく背もたれに寄り掛かって天井を見上げていた。前髪が瞳を隠して表情はよくわからない。 「それでさっきのか……」 「はい」  冷ややかな声とともに白髪の隙間から覗くキクノの視線が痛かった。 「僕のせい、ですから」 「そうだよ。ヒガンにはあんたしかいないっていうのに、まったく、あんたはッ!」  そう言ってキクノは拳でテーブルを叩き、僕は体をびくつかせて少し体を引いた。そして、静まり返った店内でカウンターからの鋭い視線に気づいて目を向ければ、そこには眉を片方だけつり上げたマスターの顔があった。キクノもそれに気がついて、前のめりになって浮いた腰を椅子に落ち着けながら、ため息とともに続きを口にする。 「本当にバカだよ。あんたたちは……」  肩を竦めて小さくなった僕を見下ろして言うキクノの言葉を、僕は、ただ聞いていることしかできなかった。  そんな僕らのもとへマスターの足音が近づいてくる。ミントとコーヒーの爽やかで落ち着いた香りが、心にしみて少し痛かった。        ◆ 「正気か⁉ そんなトリガーを設定すれば、最悪戻って来れない場合だって……」  暗闇の中で心配そうに言うキクノに、僕は青い光に照らされた彼女の顔を真っ直ぐに見て言う。 「大丈夫です」 「いや、でも……」  僕らはダウンを管理する死創機関の境界管制室、その裏にある細い路地のような機械室に忍び込んでいた。キクノはそこにある機器からラインを伸ばし、自分のコンソールに繋げている。人気のない闇の中で光るのは、明滅する機器の動作表示灯とコンソールの青い光、そして僕が手にする頼りないマグライトの細い光だけだった。  そんな中、僕の提案に渋るキクノを試すように、僕は口の端をつり上げてわざといじわるに問い掛ける。 「境界技術部主任ともあろう方が、まさかできないんですか?」 「それで挑発してるつもり? まったく似合ってないよ?」  あっけなく冷たくあしらわれて、僕は苦笑を浮かべつつも話を続けた。諦める気はないけど、キクノの協力がなければ計画を始めることさえ難しくなってしまう。 「無理ですか?」 「無茶と言うべきだね。来るかどうかもわからない上に、来たとしても彼女がそれを望む可能性が低すぎる」 「じゃあ、トリガーの設定自体は可能なんですね?」  頼もしい親友に、思わず笑みがこぼれそうになる。 「あんたは、本当にこういうときは容赦ないね」  そう言って、キクノは否定することなく諦めたようにため息をついた。そんな彼女に僕も笑顔を隠さず肯定の言葉を返す。 「ええ、僕、実はドSですから」 「知ってるよ。言われたこっちが恥ずかしくなるじゃないか」  俯いてコンソールを操作しながら、キクノが呆れたように言う。でも、なぜか最後のほうは少し口籠もるように小さな声になっていた。そんな彼女が可愛らしくて、僕は思わず調子に乗ってしまう。 「そうでした。キクノはドエ……」 「あたいは、いたってノーマルだ!」  足を思い切り踏まれながら、それでも僕はなんとか悲鳴を上げずにこらえて、涙目になりながらも口を開いた。 「まあ、それに……」 「集中したいから、もう黙っててくれないか?」  キクノに言われて自分でもおしゃべりだなと思いながら、その原因に気づいて僕はため息を大きく吐き出す。そして、周囲で黙々と動き続けるダウンの箱を眺めて息を吸うと、僕はキクノというより自分に言い聞かせるように、はっきりと自分の想いを口にした。 「僕はヒガンを信じてますから」  コンソールの上で踊るように動いていたキクノの指が止まる。そして、彼女は僕を見てつまらなそうに言った。 「ほら、準備ができたよ」 「さすがキクノ。仕事が早い」  目の前に開いたゲートを見て僕は親友を褒めると、さっそく死のある世界へと一歩を踏み出した。 「本当にいいんだね?」 「はい。もう決めたことですから」  背後から投げかけられた質問に、僕は振り向くことなく迷わず答える。  ゲートをくぐり、そこで僕は彼女に感謝の言葉を残すことにした。きっと向こうでも迷惑をかけてしまうだろうし、向こうで僕は何も知らないから。だから、悔いのないように……。 「キクノ、ありがとう」 「バカか。礼は帰ってきてから聞かせてもらうよ。しっかり二人からね」  つれないキクノの言葉を最後に、僕の意識は落ちていった。        ◆  玄関を出れば、早朝の涼しい空気とハルキ様の腕の温かさが心地好くて、わたしは静かな時間に耳を澄ませるように目を閉じた。わたしとハルキ様の鼓動が同期して、穏やかな時を刻んでいる。少し前のめりにも聞こえる心のリズムは楽しげで、わたしはもっとよく聞こうと彼の体に寄り掛かった。 「ヒガンさん! 朝から何をしていますの⁉」  鴉のような声に目を向ければ、黒塗りのリムジンの前でチエリさんが仁王立ちで指をわたしに突きつけている。そして、その隣ではワタラギさんが落ち着いた雰囲気で会釈をしていた。  わたしはワタラギさんに会釈を返し、真横を魚雷のように老執事へ突き進もうとするキクノの足首を、髪のように伸ばした幽体でつかんで固定した。 「あたいの朝一老執事がぁ……」 「朝からうるさい」  必死に手を伸ばすキクノを叱ると、わたしは再びハルキ様の温もりを味わおうと目を閉じかけて、 「なんですって⁉」  チエリさんの怒鳴り声に不機嫌になった。でも、わたしの気持ちを無視して、彼女は力強い足音とともに近づいてくる。そして、わたしの手を乱暴につかむとリムジンへ引っ張っていく。 「痛いって。なにするのよ?」 「文句など許しませんわ。さっさと行きますわよ!」  後ろを見れば大きなあくびをしたハルキ様が、目をこすりながら歩いてくる。 「ハルキさん。そのくまどうなさったの?」  わたしの手を引きながらハルキの顔を見て、チエリさんが足を止めて尋ねた。 「ん? なんかまったく眠れなくてな」 「遠足前の小学生みたいですわね」  少し楽しげに言うチエリさんに、わたしは昨夜のことを思い出して頬が緩みそうになる。それを隠すように俯いて、わたしは上目遣いでハルキ様に謝った。 「昨日はごめんなさい♡」 「どういうことですの?」  一転して厳しい目つきになったチエリさんが、わたしとハルキ様を交互に見て訊いてくる。わたしは無言でそっぽを向き、彼は額を抑えて面倒臭そうに言った。 「ああ、もう余計なことを言うな。俺は眠すぎて限界だから、着いたら起こしてくれ」  ハルキ様はふらふらと力なくリムジンへと近づくと、ワタラギさんによって優雅に開けられた後部座席のドアをくぐる。そして、倒れるようにリムジンへと吸い込まれていった。  慌ててわたしも後部座席へ乗り込むと、そこは十人は余裕で座れるような広い空間があって、その端に彼は寝転んでいた。わたしは横たわるハルキ様の隣に座ると、彼の頭を自分の膝の上に載せる。 「ちょっとヒガンさん⁉」  乗り込みながら声を上げるチエリさんに、わたしは「静かに」と右手の人差し指を自分の唇に当てた。膝の上に視線をやれば、そこには静かな寝息をたてるハルキ様の寝顔があった。  チエリさんは気持ちよさそうに眠るハルキ様を見てため息をつくと、彼の頭を撫でるわたしを睨みながら彼を挟むような形で座席に着く。そして、ふてくされたように顔を背けると運転席へと指示を出した。 「ワタラギ、出してちょうだい」 「はい。お嬢様」  ワタラギさんが頷いてそう言うと、車はハルキ様に気を遣ってか音もなくゆっくりと動き始める。そして窓の外では、わたしの幽体に繋がれたキクノが風船のように揺れながら、その後をついてきていた。        ◆ 「ハルキ兄様、着きましたよ」  彼の肩を揺らしながら、わたしはその耳元に声をかける。 「ん? もう着いたのか?」  重たそうなまぶたを開けながら、ハルキ様が起きようとしてわたしの太ももに手を触れた。 「ん? これは……」  しばらくわたしの太ももの上をさわさわとハルキ様の手が動き、わたしは触れられていることが嬉しくて笑みを浮かべた。するとハルキ様は動きを止めて、頬を赤くしながらはっきりと目を見開いてわたしを見る。 「うわわわっ!」 「あ、ハルキ兄様、危ないっ!」  急に飛び起きて立ち上がろうとする彼に注意するけど、 「ぐえッ!」  彼は九十度に曲がった首を押さえてしゃがみ込んだ。 「何をやっていますの⁉」 「……いや、なんでも、ない」  音に驚いて先にリムジンを降りていたチエリさんが車内をのぞいてきて、それにハルキ様は首と頭を押さえながら答えると、しゃがんだまま変な体勢で外へと出て行く。わたしも続いて車を降りると、そこには潮騒をBGMに絵画のような風景が広がっていた。 「わあー、きれい」  まず目に入ったのは、小高い丘の上にある大きな二階建ての屋敷だった。屋敷はロッジ風で、そこへ続く道や周囲には整然と松林が広がっている。どちらも見るからに立派で、とても手入れが行き届いているようだった。そして、夕焼けに染まる屋敷の反対側へと目をやれば、そこには琥珀をちりばめたような海と、夕日のクリームをそこへ流したような金色の道が伸びていた。 「わたくしのプライベートビーチなのですから、美しくて当然ですわ。ねえ、ハルキさんも、そう思うでしょ?」 「ああ、きれいだな」  首を押さえながら、ハルキ様が素直に感想を口にする。  海とは対照的に、砂浜から松林にかけては静かな闇が広がり、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。そんな美しい風景を三人でしばらく眺めていると、遠くから忘れていた声が飛んでくる。 「ワタラギ様ぁ!」  キクノの声にわたしは自分から伸びた幽体を思いっきり引っ張った。 「そんぬわぁあああ!」  夕日へ叫んで飛んでいくキクノを見送ると、わたしは周囲を見回してワタラギさんを探した。するとリムジンのそばで立っていた老執事は、キクノの飛んでいった方向を静かに見つめている。 「あの、ワタラギさん?」  わたしの視線に気づくと、ワタラギさんはすぐにチエリさんのほうを向いて彼女に話しかけた。 「あの、お嬢様、私めは夕食の準備がございますので、少し失礼させていただきます」 「ええ。わかりましたわ」  急に話しかけられたチエリさんは、少し驚いた様子でワタラギさんに返事をする。そして、ワタラギさんはリムジンで来た道を引き返して行った。 「少し冷えてきたし、俺たちもそろそろ屋敷に行かないか?」  リムジンの音が消えて波の音が戻ってくると、横にいたハルキ様が私たちを見て言った。 「そうですね」 「そうですわね」  チエリさんとともにハルキ様に答えながら、わたしは何か少し引っかかるものを感じていた。でもハルキ様の足音が聞こえて、わたしはすぐにそちらへと頭を切り換える。気がつけばチエリさんも彼を追って歩き出していた。そして、わたしたちは三人で屋敷へと続く砂の道を進んでいく。  後ろのことなどお構いなしに、自分のペースでさっさと前を歩いていくハルキ様を追おうとすると、そんなわたしの腕を、横から華奢な手がつかんで引き留めた。 「ヒガンさん。昨日、ハルキさんと何かありましたの?」 「昨日?」  離れていくハルキ様を気にしながら、それでもチエリさんの真剣な眼差しにわたしは顔をそらせなかった。焦る気持ちが口を動かし、勝手に言葉となって出ていく。 「昨日は、ハルキ兄様と一晩中一緒でした」 「ひ、一晩中⁉」  驚くチエリさんを振り解いて、わたしはハルキ様の後を追う。走って飛び散る砂の音にハルキ様が振り向いて、わたしは彼の腕にしがみついた。 「お、おい」 「もう、わたしを置いて、どこに行くんですか?」  戸惑うハルキ様に、わたしは彼の温もりを確かめながら少し頬を膨らませて言う。 「どこって……」 「ハ、ハルキさん⁉ あなたという方は……」  そして、追いかけてきたチエリさんが声を荒げて力強く砂地を踏みしめながら、ハルキ様をビシッと指さして言った。 「男性はオオカミだと聞いたことがありますが、ほ、本当だったのですね!」 「は?」  首をかしげるハルキ様に、チエリさんはさらに一歩を踏み出して真っ赤な顔で言う。 「ヒガンさんと、い、いち、一夜をともにするなんて⁉」 「そ、それは……、チエリに関係ないだろ?」 「まあ! 認めますのね! 関係ないことではありませんわ!」 「な、なんでだよ?」 「そ、それは……」  ハルキ様とわたしを交互に見て、チエリさんは視線を泳がせると口籠もる。でも、すぐにハルキ様を真っ直ぐに見つめ直すと答えを彼にぶつけた。 「わたくしの別荘では、だ、男女同室が禁止だからです!」 「いや、俺は最初から一人で寝るつもりだが……」 「えー、わたしはハルキ兄様とがいいです」  わたしはそう言うと、彼女に見せつけるように自分の胸をハルキ様の腕に押しつける。  でも、チエリさんは真っ赤な顔で少し頭をふらつかせながら、わたしとハルキ様の話などお構いなしに一つの提案を口にした。 「し、仕方ありませんね。そ、それでは、さ、三人一緒で寝ることにしましょう」 「おい! なんでそうなる。それに男女同室は禁止なんだろ?」 「ヒ、ヒガンさんを餓えたオオカミから守るためですわ。か、彼女を守りつつオオカミも監視できて、い、一石二鳥。なんて素晴らしい考えなのかしら」  そう言って、壊れたおもちゃのように笑うチエリさんにハルキ様が疑問を投げかける。 「自分で言うのもなんだが、それって一石二鳥と言うより一狼二兎じゃないか?」  するとチエリさんは自分の体を守るように抱きしめて一歩を下がると、ハルキ様を上目遣いで睨みながら言った。 「わ、わたくしも襲うつもりですの⁉ それは、あの、(嬉しいというか、願ったり叶ったりというか)……」  後半は声が小さすぎて余り聞こえなかったけど、体をもじもじとさせる彼女を見れば大体内容は想像できる。そんな彼女を見て思わずクスリと笑ったわたしに気づいて、チエリさんは慌てて強引に話を戻した。 「と、とにかく! わたくしの別荘では、わ、わたくしがルールですわ。文句は一切受け付けませんから!」  そんな彼女に、ハルキ様はため息とともにお手上げのポーズで答える。 「別に文句じゃなかったんだが……。もう、煮るなり焼くなり好きにしてくれ」  そう言って、ハルキ様は再び丘の上の屋敷へと歩き出す。そして、わたしも彼の腕にぶら下がりながら歩き出した。ちらりとチエリさんの様子を窺えば、彼女は胸を押さえて吐息をついていたけど、その胸に当てられた手はガッツポーズのようにぎゅっと強く握られていた。  視線を丘の上に戻すと、屋敷にはいつの間にか温かな明かりがついていて、潮の匂いに混じってデミグラスソースとお肉の焼けるおいしそうな匂いが流れてきていた。        ◆ 「ヒガンさん、起きていますか?」 「なんですか?」  吹き抜けの天井を見上げながら、わたしはチエリさんに答える。大きく開いた天窓からは幾つもの星が瞬き、見えない月も二階の窓から深海を照らすサーチライトのように明かりだけを一階へと伸ばして、その存在を主張していた。 「ヒガンさんはハルキさんのこと、どう思っていますの?」  わたしは仰向けのまま、静かな寝息をたてるハルキ様の横顔を見た。わたしとチエリさんは彼を挟んで、川の字のように一階のリビングで寝ている。小さな川を照らす月明かりに太陽のような熱はなく、静まり返った周囲の闇と相まって、少し冷たい雰囲気が隣の温もりを意識させた。  わたしは、視線の先にある彼にかつての面影を重ねながら答える。 「好き、です」  自然とこぼれ落ちた言葉に、わたしの心が揺れて波紋が広がる。 「一体、こんなオオカミのどこがいいのかしら?」  ハルキ様の体の向こうから、チエリさんのすねるような呆れる声が聞こえる。わたしは震える心を抑えるように胸に手を当てて、彼女の疑問に答えた。 「優しいじゃないですか」 「そんなこと当たり前ですわ。ハルキさんは騎士(ナイト)ですから」 「騎士?」  わたしの疑問にチエリさんは、自分のことを自慢するように話し始める。 「そうですわ。ハルキさんは優しいだけではなく強い方です。自分で立って生きる術を既に身に付けている。わたくしがお手伝いしなくても、十分にお父様と対等に渡り合える方ですもの」  最後はどこか寂しそうで、それはイグノアに置き去りにされたわたしと同じような気がした。 「ほかにはありませんの? もっと、自分にだけというような……」  じれったさを我慢するように、彼女は再び訊いてくる。  わたしは、向こうの世界に想いを馳せながら口を開いた。 「ハルキ兄様は、こんなわたしを受け入れてくれますから」 「そうかしら。わたくしには嫌がっているように見えますけど?」  ハルキ様の態度を思い浮かべて、自分でも苦笑が漏れる。 「そうですね。でも、好きなんです」  胸一杯に膨らむ想いが苦しくて、わたしは心に巻き付いた鎖のようだと思った。 「……契約、ですから」 「何かおっしゃいました?」  わたしの小さな呟きにチエリさんは聞き返す。でも、わたしはカブト様との秘密を再び胸にしまい込んで別の言葉を返した。 「あの、チエリさんも好きなんですよね? ハルキ兄様のこと」 「はあ! いきなり、あなた何を言っていますの⁉」 「しーっ」  予想以上の反応に、わたしは思わず上半身を起こしてチエリさんに注意する。  目を見開いてこっちを見る彼女とわたしは、視線を合わせると、ゆっくりと同時に下へと目を向けた。そこには、変わらずに穏やかなテンポで繰り返される寝息と好きな人の寝顔があって、わたしとチエリさんは一緒に胸を撫で下ろした。  するとそのとき、ハルキ様が寝返りを打ってチエリさんのほうを向いた。 「……チエリ、ありがとう……」  突然聞こえたハルキ様の言葉に、わたしたちの息が止まる。でも、彼は毛布を抱き寄せると再び寝息をたて始め、そのことに安堵の息を漏らしながら、わたしはチエリさんに目を向けた。彼女の顔は桜のようにほんのりと染まり、その視線はハルキ様に向けられている。でも、わたしの視線に気づくと、 「こ、こんな独りオオカミ、好きになるわけありませんわ」  そう言って背を向け、毛布を頭から被ってしまった。 「さっさと寝ますわよ」  毛布から聞こえるくぐもった声に「そうですね」と答えて、わたしも毛布にくるまった。目の前にはハルキ様の大きな背中がある。でも今のわたしには、なぜか触れることができなかった。        ◆ 「ふーん。カブトが行方不明ねぇ」  あたいはオープンカフェでブラックのコーヒーを飲みながら、ヒガンの話を普段のように聞いていた。目の前にいる彼女は、クリームソーダのグラスに手をつけることなく俯いている。  グラスの中では、緑のソーダ水の中を幾つもの泡が昇って、あるものは水面に浮かんだ雪玉のようなアイスにぶつかり、あるものはそのまま水面へと上がっていく。でも、結局はどれも弾けて消えていくだけだった。  あたいも、いつかは消えてしまうのかな。  死の恐怖を何度味わっても、無数の人生を体験しても、結局最後はやってきて、すべてを無意味なものにしてしまうのだろうか。  そんなことを考えていると、小さく息を吸う音が聞こえて、あたいはヒガンのほうへと視線を戻した。 「キクノは最近、カブト様を見なかった?」 「あたいは……」  そこまで言って少し考える。予定どおりのことだし答えも用意してあるから問題はないのに、喉がつかえたように言葉が出なかった。  嘘は苦手なんだよね。  心の中で苦笑して、でも覚悟を決めると、あたいは普段どおりの口調で用意していた台詞を口にする。 「そういえば見てないね」 「……そう」  肩を落として落胆するヒガンに、あたいは話を続ける。 「ただ、仕事中に小耳に挟んだんだけど、カブトの奴、落ちたみたいだよ?」  その瞬間、ヒガンは目を見開いて驚きの表情を浮かべたまま固まった。そうなることはわかっていたけど、やっぱり目の前で実際に見るときついものがある。 「それ……、ほんと?」  微かに唇を振るわせながら、ヒガンがつぶやくように訊いてくる。彼女の雰囲気に呑まれないように、あたいは努めて平静に話を続けた。 「ああ。珍しくループ設定を使う奴が現れたって、部内でちょっとした噂になっててね」  ヒガンは無言で俯くと、目の前にあったグラスを両手でつかんだ。アイスは溶け始めていて、きれいだったソーダの緑がゆっくりと白く濁っていく。 「……愛想、尽かされちゃったのかな?」  その冷たい声は、まるでグラスごとソーダを凍らせそうなほどに思えた。 「なんでそうなるんだよ。そんなわけないでしょ?」 「キクノに何がわかるのよ!」  目尻に涙を浮かべてテーブルを叩きながら、ヒガンが立ち上がって背を向けた。  彼女の叫びが胸に突き刺さって、痛みと震えがあたいの心を揺さぶる。  本当に、こういうのは苦手だ。  背中を嫌な汗が流れて喉が渇き、あたいはすっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干した。  酸味と苦味、そして僅かに残った芳ばしい香りが、少しは気分を落ち着かせてくれる。 「何かあったの?」  背を向けたまま無言で佇むヒガンに、あたいは答えのわかりきった質問をした。彼女を一人で行かせるわけにはいかない。 「…………」  ヒガンは振り向いて、今にも泣き崩れそうな顔で睨みつけながら、それでも無言であたいを見下ろした。あたいも、そんな彼女を真っ直ぐに見上げる。  彼女の小さな唇は痛いほどに噛み締められていて、見ているだけで胸がキュッと締め付けられた。  そんな彼女の唇が動いて言った。 「行く」 「どこに?」 「ダウンに」  つばぜり合いのようなやりとりのあと、あたいは一呼吸を置いて、話の流れを意識しながら先を続けた。 「普通に落ちたら、記憶を封印されて自分さえも見失うんだよ。そんな状態でどうやってカブトを連れ戻すのさ? それに、そんなことしたら最悪、あのときみたいに……」  みるみるうちにヒガンの唇が真っ青になっていく。彼女は自分の体を抱きしめて、俯き震えながら吐き出すように言った。 「じゃあ、どうすればいいっていうの?」  ポロポロとこぼれ落ちる涙に、あたいは心の内で謝りながらも胸を張って言った。 「こういうときは友達を頼るもんさ。大丈夫、あたいに任せときな!」  見上げるヒガンに向かって、あたいは自分の胸を力強く叩いてみせる。  自分のできることをやるしかないんだ。結果がどんなに辛くても、それが未来に続くのなら意味のあることなんだから。        ◆ 「それで、どうするの?」  薄暗い階段を降りながら尋ねてくるヒガンに、あたいは何も答えず前を行く。  ここは自分の家にある隠し通路。イグノアとダウンの境界システムを預かる技術部の主任としては、予期せぬトラブルに対応するため、いろいろと日々研究しなければいけないことがある。そのための施設がこの先にあった。そう、決して趣味や遊びではない。研究のための施設だ。だから、大丈夫。他人に見せて恥ずかしいことなどなにもない。  そう自分に言い聞かせてドアの前で立ち止まると、あたいは後ろのヒガンに念を押しておこうと振り向いた。 「ヒガン、ここから先はいろいろと守秘義務があるから、置いてある物に勝手に触れたりしないでね。それから、ここで見聞きしたことは他言無用でお願い。もし破ったら……」 「破ったら?」  意外と気楽な声で聞き返してくる彼女に、あたいはその顔をのぞき込むようにして声を低くして言った。 「取り敢えず、あんたの記憶を消すから」 「ひ……」 「ひ?」  口をへの字にして見下ろしてくるヒガンの瞳が潤んでいる。  あ、言い過ぎた?  そう思った直後、予想どおりの反応がやって来た。 「酷い! 鬼畜! 外道! ドM! うわぁああぁあああん!」 「ああ、うそうそっ! 冗談だから! そんなことしないから! て、ドMは関係ないでしょ⁉」  目の前で滝のように涙を流すヒガンの肩をつかんで、あたいは少し混乱しつつも慌ててなだめすかした。 「ほんと? カブト様のこと、忘れたりしない?」  涙を両手で拭いながら見下ろしてくるヒガンに、あたいは肩を落として大きなため息をつく。 「ほんとに、あんたはこんなときでもカブトかい。安心しな、そんなことはしないよ。でも守秘義務があるのも本当だから、外で余計なことは言わないこと。それが守れないと協力はできない。わかった?」 「うん。わかった」  はなをすすりながらも落ち着き始めた彼女にほっとしながら、あたいはカブトの顔を思い浮かべていた。  あいつ、戻ってきたら絶対にこの付けは払わせるから覚悟しときなさいよ。 「キクノ、どうしたの?」 「ううん、なんでも」  決意の拳を握りしめたあたいをのぞき込むヒガンにそう言って、あたいは目の前の扉に手をかけた。 「じゃあ、いくよ」  頷くヒガンの前で、重い扉がゆっくりと開いていく。 「ようこそ。あたいの研究室へ」        ◆  床を這う幾つものコードを軽くよけながら、あたいは部屋の奥にあるメインコンソールへと向かった。 「キクノ。これ、どこ歩けばいいのよー」 「少しくらい踏んでも大丈夫だから気にせず入ってきて」  入り口のほうから聞こえてくるヒガンの声に、あたいは椅子に腰掛けてメインコンソールのパワーを入れながら答える。そして、コンソールが起動するとバックゲートの準備に取り掛かった。  後ろからは「わわっ」とか「きゃっ」とか聞こえてきて、無事にここまで辿り着けるのか少し心配になる。 「あ、コードは踏んでもいいけど転ばないように気をつけ……」  気になって注意をしつつ振り向いてみれば、そこには太いコードの上に、今にもかかとから足を着こうとするヒガンの姿があった。 「きゃっ!」  止めるまもなく、コードは転がりヒガンの片足は見事に宙へと振り上げられる。そして、バランスをとろうとした彼女の手が、よりにもよって室内環境コンソールの上を撫でた。  まずい!  そう思ったときには室内が暗くなり、人影がぼんやりと浮かび上がる。それは次第に輪郭を持ってタキシード姿の老執事の姿になった。同時に部屋にあった機材やコードは姿を消し、代わりに部屋中が白い大理石で覆われる。そして、壁に空いた大きな開口部から外を見れば、そこには温かな日差しと手入れの行き届いた庭園が広がっていた。 「いったーい」  鏡のような床にお尻を打ちつけたヒガンが顔をしかめていると、その眼前に薄手の白い手袋をはめた手が優雅に差し出される。 「お嬢様、大丈夫ですか?」 「え? な、何?」  周囲の変わりように驚きながらも、ヒガンは思わずその白い手に自分の手を重ねた。すると、老執事はその手を優しく握り、軽い動きでヒガンを立ち上がらせる。 「あ、ありがとうございます」  お礼を言うヒガンに、老執事は嬉しそうに温かい瞳で微笑みかける。それを見て、やっぱり老執事最高!と思いつつ、あたいはふと我に返った。 「もう、勝手に触れないでって言ったでしょ!」  あたいは急いでコンソールまでダッシュすると、室内環境を休憩モードから研究モードに戻す。 「余り、ご無理はなさらないでくださいね」  老執事はそう言って、あたいとヒガンに純真無垢な少年のような瞳を向けてくる。そして、慈愛溢れる笑みとともに彼は深く頭を下げながら消えていった。 「あのぉ、キクノさん?」  ヒガンが嫌らしい笑みをこちらに向けるより早く、あたいはとっさに彼女の視線を避けて背を向ける。  バレた。あたいの秘密の花園が。今まで秘密にしてたのに……。  顔から火が出そうで言い訳する言葉も見つからず、おぼつかない足取りでコードに何度か躓きながらも、あたいはなんとか席に戻ると気を取り直して言った。 「さ、さっさと始めるよ!」  コンソールのディスプレイを見ながら言うと、後ろでクスッと小さな笑い声が聞こえて耳まで熱くなる。 「だらだらしないッ!」 「はーい」  楽しそうな返事がいまいましいけど、あたいは無視してさっさと準備を進めることにした。  隣に来たヒガンに椅子を用意して勧めると、彼女は満面の笑みを向けてくる。それにあたいは半眼で睨み返す。それでも平然と笑みを浮かべたままの彼女に嘆息して、あたいはコンソールを操作しながら説明も兼ねて話を始める。 「まずはカブトの居場所を絞り込みますか」 「カブト様の場所がわかるの?」  一転して真面目な口調で訊いてくるヒガンに内心で苦笑を浮かべながら、あたいも普段の調子で話を続ける。 「うーん。さすがに現在地までは無理かな。ダイブ履歴から年代と空間くらいはわかるけど」 「それでもすごいよ。あとは、わたしの愛の力にまかせて!」 「あんたはバカか」  軽くヒガンの額を叩いて、あたいは大げさにため息をついた。 「痛いよー」  額に手を当てて膨れる彼女の前に、あたいは人差し指を立てながら、ゆっくりと言い聞かせる。 「あのね、もうカブトが落ちてから大分時間が経ってるんだよ? あたいの腕を持ってしても特定できる空間っていうのは、そうだな、少なくても町数個分までだし、既に何回かループしてる可能性だってある。そうなればループした回数に比例して年代や空間にも誤差が生じるから、その愛の力とやらがどんなにすごくても、それだけでカブトを見つけるってのは、無数に発生するソーダの泡から二重の泡を消える前に見つけるようなもんなの」 「ふーん。そうなんだ」  よくわかっていないヒガンに、「あんたのは愛じゃなくて恋だよ」と心の中でつぶやいて、あたいは話を続ける。 「それに想力は使えるけど、ダウンには防衛機構があるからね」 「防衛機構?」 「そう。ダウンが自身の世界を守るための機能だよ。アウラウネの歌声とかって呼ぶ輩もいるけど。異常な想力を感知するとそいつが働いて、力と使用者をダウンから排除しようとするんだ」 「排除って、もしかして殺されるとか?」 「幽体は殺せないよ」 「そうだよね。じゃあ、どうなるの?」  ヒガンの質問に、あたいは意味ありげな笑みを浮かべて答える。 「昇天させるのさ」 「……昇・天?」 「前に試しでつくった防衛機構のイミテーションがあるから体験させてあげるよ」  そう言って、あたいは笑いをこらえながらコンソールを操作した。するとヒガンの周りに透明なシールドが現れた。 「え、何⁉」  慌てる彼女に構わず、あたいは防衛機構の想力排除シークエンスを実行する。 「いってらっしゃーい」 「なになに? ひゃう!」  直後、ヒガンが可愛らしい声を上げて椅子から少し飛び跳ねた。 「な、なに⁉ 何したの⁉」  驚く彼女を目の前で観察しながら、あたいはシークエンスの排除強度を上げていく。 「ひっ、や、やぁ、なにこれ。あん♡ ちょっと? ひゃう! いやぁん♡ やめ、ひぁうっ!」  椅子の上で体を抱えて小さく飛び跳ねていたヒガンは、徐々に体をのけぞらせ、さらには腰を跳ねさせて悶え始める。 「だめ。これ、イク♡ イッちゃう、からぁ♡ やめ、ひゃう♡ おねが、ひィッ!」  これくらいにしておいてあげるか。  あたいはシークエンスを終了すると、荒い息をついてぐったりとするヒガンを見下ろした。すっかり力の抜けた上半身とは対照的に、彼女の腰は時折ビクッビクッと別の生き物のように痙攣している。  なんか、自分のときよりエロいな。  少し顔が熱くなるのを自覚しながら、あたいはヒガンの様子を見つつ努めて平静に説明を続けた。 「そんな感じで、想力は派手に使えない。それに、これ以外にもダウンを監視している対策室の連中に見つかってもいけないし、そうなると結構地道に、下手したら何百年も探すことになるかもしれないけど、それでも行く?」 「と、当然です」  微かに痙攣の残る体で荒い息をつきながらも、彼女は真っ直ぐな視線で言ってくる。  ほんと、想う力はすごいね。  あたいは絞り込んだダウンの時空間座標にバックゲートを接続すると、呼吸の落ち着き始めたヒガンを見て立ち上がった。 「いい? 落ちたら、まずはカブトを探す。次に、ループを止めるためのデッドトリガーを調べる。そこから先はトリガーの内容によるから、出たとこ勝負で行きましょ」 「うん。わかった」  ヒガンを椅子から立たせて、あたいは膝の震える彼女を支えた。そして、設定の完了したコンソールを閉じると、彼女とともにゲートへと向かう。 「え? キクノ? どこ行くの?」 「どこって、ダウンに決まってるでしょ?」 「もしかして、今から?」  当たり前のことを聞くヒガンに、あたいは大きく落胆のため息をついた。 「さっき説明したでしょ? ループするほど誤差が大きくなるって。説明も済んだし設定も終わったんだから、さっさと行かないと」 「いや、わたし、今、体がうまく動かないんだけど……」 「そんなの大丈夫よ。向こうに着くまでには直るから。それとも、まさか心の準備ができてないとか言うんじゃないでしょうね?」 「そう、じゃないけど……」  そうこう言っている内に、あたいたちはバックゲートの前にやってくる。 「じゃあ問題なし。レッツ・ゴー・ダウン!」 「そんなぁああああぁああぁあああぁ!」  そして、あたいとヒガンはバックゲートからカブトの待つ世界へと落ちていった。        ◆  その日、わたしは眩しい日差しに呼ばれるようにして目を覚ました。少し湿り気のあるひんやりとした空気が首元を流れ過ぎていく。  目の前にはハルキ様の横顔があって、静かな寝息をたてている。でも、その向こうにもう一人の気配はなかった。  隣の彼を起こさないように静かに体を起こして見てみれば、彼女がいた場所には、日差しを反射するきれいな床があるだけ。  遠くからは朝食の準備をしているのか、包丁などの調理器具が奏でる朝の音が聞こえ、そして微かな潮風に乗って、玄関のほうからは桜を思わせる彼女の残り香が、わたしを誘うように流れてきていた。  早朝の散歩か。気持ちよさそうね。  そして、わたしはゆっくり伸びをすると、取り敢えずシャワーを浴びることにした。        ◆ 「うーん。気持ちいー」  服を着替えて外に出ると、少し高くなった日差しが温かく出迎えてくれる。  半袖のTシャツは少し大きめで、裾から入る風が気持ちいい。それにデニムのショートパンツも、ぴったりフィットしてるのに動きやすくて思わず走り出したくなる。ただ、わたしは足を締め付けるような黒のオーバーニーを見て、その気持ちをぐっとこらえた。  ほんとは生足のほうがいいんだけど。  今から会いに行く相手を思い浮かべて、わたしは短く息を吐いて気持ちを切り替える。  ここは、年長者の余裕を見せることにしましょ。  海岸へと続く道を歩きながら海のほうへと視線を向ければ、海岸線の上に昇った太陽が海をきらきらと輝かせ、水平線はどこまでも続いて世界の広さを感じさせる。  ここも一つの世界なんだよね。  いろんな人が生きて、そして、死んでいく。  その人生がどんなものであっても、イグノアへと戻ってしまえば、それはただの経験になってしまう。そして、それが静かな終わりから逃れるためであっても、誰かを殺すのは、やっぱりわたしには耐えられない。  どうすればいいの?  彼の顔を思い浮かべて屋敷のほうへと視線を向ける。でも、わたしの耳に届いたのは波のさざめきと海鳥の鳴き声だけだった。  海岸に着くと、潮風に揺らめく白いワンピースが目に留まる。彼女は少し大きめの麦わら帽子を目深にかぶって、波打ち際をのんびりと歩いていた。  落ち着いた波の音を聞きながら、わたしは彼女に声をかける。 「チエリさん、おはよ」  わたしの声に彼女は振り向いて、柔らかな笑みを浮かべる。いたずらな風が少し強めに吹いてワンピースが彼女の体を優しく抱きしめ、そのきれいなシルエットを浮かび上がらせた。  麦わら帽子とワンピースの裾を手で押さえる彼女に近づいて、わたしは話しかける。 「気持ちのいい風ですね」 「ええ、そうですわね。でも、少し冷たいかも」  そう言う彼女は、どこか寂しそうに水平線の向こうを見ていた。 「あの、ちょっと訊いてもいいですか?」 「なんですの?」  彼女は少し困ったような微妙な笑みを浮かべて、わたしを見た。でも、わたしは気にせず質問を口にする。 「チエリさんは、ハルキ兄様といつ頃からのお付き合いなんですか?」 「ハ、ハルキさんとのお付き合い⁉」  少し裏返りかけた声をとっさに抑えた彼女に、わたしはのぞき込むようにして念のために言った。 「恋人の意味じゃないですよ?」 「わ、わかっていますわ!」  慌てて否定して彼女はわたしから視線をそらすと、一つ咳払いをして話し始めた。 「そうですわね。ハルキさんと初めて出会ったのは中学校に通い始めの頃、資産家の方々を招いたお父様のパーティでのことでしたわ」  水平線よりもどこか遠くを見つめる彼女の口調は、徐々に穏やかなものになっていく。 「パーティーに来る大人と言えば、誰もが分厚い仮面のような愛想笑いを浮かべていて、正直なところ、わたくしは少し不気味に感じていましたの。でも、その日はそんな人たちに混じって、よれよれのスーツを着た無精ひげの男性がいて、そのいかにも人のよさそうな方は、お父様のような凜々しさはありませんでしたけれど、どこかお父様と同じような大きくて温かい感じがしましたの。そして、その横にいたのがハルキさん」  一息ついて、波音をBGMに彼女は話を続ける。 「ハルキさんは、出会ったときから他人を寄せ付けない雰囲気をまとっていましたわ。でも、それは他人を毛嫌いしているからではなくて、ご自分の立ち位置やテリトリーを持っているからだと、見ていて気づきましたの。だって、当時からハルキさんは投資の天才として有名でしたけれど、「君」とか「坊や」とか自分のことを名前で呼ばないような方は一切無視していましたから」  楽しげに微笑む彼女の横顔を見ながら、わたしは嬉しさと寂しさがない交ぜになった感情を抑えるように、両手を握りしめて胸に当てた。 「それが、わたくしには素敵に見えましたの。だって、わたくしはいつも誰かに支えられてばかり……」  彼女のつくため息でさえも、今のわたしにはうらやましい。 「ですから、彼と同じ高校に入学して、彼がわたくしのことを覚えていなかったときはショックでしたわ。でも、ハルキさんのようになりたいという憧れが、いつの間にか彼と一緒にいたいという恋心に変わっていることに気づいたのも、丁度そのとき。正直、自分でも少し驚きましたけどね」  それは、わたしに対する明確な宣戦布告だった。でも、彼女の声は潮騒に消えることなくはっきりとわたしの耳に届いて、甘く切ない気持ちにさせる。 「結局、これって一目惚れになるのかしら?」  はにかみながら、彼女は小首をかしげて訊いてくる。  白桜色の髪と肌が朝日にきらめいて、チエリさんは眩しいほどにきれいだった。        ◆ 「はーるーきーにーさーまー」  ベランダで大きなあくびをしていた彼に、わたしは海岸から屋敷までの道を歩きながら手を振って呼びかけた。 「ようやく起きてきましたのね」  こっちに気づいたハルキ様は軽く手を上げ、わたしとチエリさんは互いの顔を見て笑い合う。  そんなわたしたちを見て、ハルキ様は少し首をかしげていた。        ◆ 「食事が済んだら早速ビーチで泳ぎますわよ。ヒガンさん」 「はい。夏を満喫しましょうね」  サラダを口に運ぶチエリさんに、わたしはオレンジジュースをワタラギさんに注いでもらいながら笑顔で答える。 「おまえら、さっき帰ってきたばかりなのに随分と元気だな」  ハルキ様の言葉に、わたしとチエリさんの動きが止まる。 「何を言っていますの? わたくしたち海水浴に来たんですのよ?」 「そうですよ、ハルキ兄様。散歩と海水浴は違うんですよ?」  わたしたちの反論に、ハルキ様は「ああ、そうですか」と興味なさそうに言って、カットされたメロンにフォークを刺して口へと放り込んだ。 「それで、チエリさん、水着はどんなのがあるんですか?」 「そうですわね。一通り揃ってはいますけど、ヒガンさんにはわたくしが、とっておきのものを選んで差し上げますわ」 「じゃあ、わたしもチエリさんの水着を選んであげますね」 「ふふふ、それは楽しみね」  ふわふわのフレンチトーストをナイフとフォークで上品に切り分けながら、チエリさんは不敵な笑みをわたしに向けて言う。わたしも、フルーツとクリームをふんだんにちりばめたパンケーキにナイフを入れながら、力強い笑みを返した。  窓から差し込む日も強くなってきて、わたしは心が浮き立つのを感じながら口に広がる甘酸っぱい幸せを噛み締める。 「なあ、おまえら、何かあったのか?」  飲んでいた牛乳のグラスを置いてハルキ様が訊いてくる。わたしとチエリさんは目だけを合わせると、それぞれの食事を進めながら言った。 「なんにもありませんわよ?」 「そうそう。なーんにも」  わたしとチエリさんを見て怪訝な表情を浮かべながらも、ハルキ様はそれ以上何も言わず、手にしたベーコンエッグトーストにかじりつく。 「ワタラギ、ハルキさんの水着とバーベキューの用意は任せますわ」 「はい」  空いた食器を片付けながら、ワタラギさんが穏やかな声でチエリさんに答える。それを聞いたハルキ様が、口の周りを拭きながら彼女に尋ねた。 「やっぱ、俺も行かなきゃダメか?」 「当たり前ですわ!」 「絶対です!」 「……だよな。わかったよ」  当然のごとく速攻で却下されて、ハルキ様はうなだれながら小さく両手を挙げる。すると、上空から懐かしい声が聞こえてきた。 「あたいもビーチでワタラギ様とバーベキューするんだ~」  上を見れば、いつの間に戻ってきたのか、キクノが吹き抜けになった二階部分をわかめのようにゆらゆらと漂っていた。        ◆ 「ん? ちょっときついかも」  砂浜に突き刺さったビーチパラソルの下で、わたしはビーチチェアに座ってモノトーン柄のチューブトップを手で直していた。 「ですから、ワンピースのほうをお勧めしましたのに」  隣のビーチチェアで横になりながら、少し大きめのサングラスを下にずらしてチエリさんが言ってくる。彼女はフリルの付いた可愛らしい白いAラインのワンピース水着を着ていた。 「チエリさんこそ、わたしが選んだ白いビキニだったら、きっとハルキ兄様を一瞬で悩殺でしたよ?」 「の、悩殺って、わたくしの優雅な魅力があれば、それで十分ですわ!」  そう言って彼女は、隣のテーブルに置いてあった大きな麦わら帽子で顔を隠した。 「あ、そう言えば、チエリさん?」 「何よ?」  麦わら帽子越しに少し不機嫌な声が返ってくる。 「その帽子、いつもかぶってますけど、お気に入りなんですか?」  わたしの言葉に、帽子を握る手にキュッと力が籠もった。 「あの、チエリさん?」  黙る彼女の名前を呼ぶと、麦わら帽子から小さな声が聞こえてくる。 「ハルキさんからの……」 「ハルキ兄様?」  聞き返すと、今度は大きく息を吸う音が聞こえてくる。そして、 「ハルキさんからの誕生日プレゼントですのっ!」  帽子から赤い顔を覗かせて一気に言うと、亀のようにチエリさんは顔を再び隠してしまった。  何これ、かわいい。  思わず頬に手を当ててそう思っていると、後ろから足音が聞こえてきた。 「呼んだか?」  その声に振り向けば、そこにはクーラーボックスを抱えたハルキ様と、バーベキュー用のコンロと木炭の入った箱を軽々と両肩に抱えたワタラギさんの姿があった。 「では、私めはコンロの用意をして残りの食材も持ってまいりますので、ハルキ様、それはここで結構でございますから、あとはお嬢様たちと海水浴をお楽しみください」  そう言ってワタラギさんは、少し離れた場所にコンロを持っていく。 「ハルキ兄様! ハルキ兄様!」  わたしは駆け寄って、クーラーボックスを持つ彼の筋肉質な腕に抱きついた。 「ちょっ、なんだよ、危ないだろ!」  慌てる彼を無視して、わたしはチエリさんの麦わら帽子を指さして確認する。 「あれって、ハルキ兄様がプレゼントしたんですか?」 「え? ああ、そうだが……」  少し頬を染めて顔をそらすハルキ様と麦わら帽子で顔を隠したチエリさんを見て、わたしの胸が甘酸っぱく締め付けられる。そんな少し窮屈な胸を思いっきり押しつけるようにして、わたしは彼の腕を抱きしめ直した。 「おい、だからひっつくなって! 危ないだろ⁉」  ハルキ様、素敵です♡  想いを体で十分に伝えると、わたしはハルキ様から離れて笑顔を向けた。すると、ハルキ様は少し慌てた様子で顔をそらすと、近くにクーラーボックスを置きながら視線を向けずに言ってくる。 「なんだよ。おまえも、その、何か欲しいのか?」  その言葉に、わたしの胸がさらに一杯になる。そして、体は吸い寄せられるように再びハルキ様の下へと近づいていった。 「ハルキ兄様……」  わたしは苦しい胸を両腕で押さえながら、上目遣いで彼の名前を呼ぶ。  振り向いた彼の視線は、わたしの顔を見て、そして後ずさりながらも強調された二つの膨らみへと向けらる。 「おい、ちょっと待て! それ以上近づかなくていいから……」  そう言いながらもハルキ様の視線は、わたしの胸に刺さったまま肌をくすぐる。 「ハルキ兄様、わたし、欲しいものがあります!」 「な、なんだ?」  及び腰で訊いてくるハルキ様に続きを言おうとしたそのとき、足の甲を何かわさわさと無数の毛が這い回るような感触が襲った。 「・・・・」 「ヒガン?」  嫌な予感が見てはいけないと激しく警告している。でも、わたしはビーチサンダルを履いた自分の足を見下ろした。 「い……」  そこには無数の細い足を蠢かせて、太い触覚でわたしの肌をなでる大きなダンゴムシのような虫がいた。 「いやぁああああぁあああぁああぁああああぁああああ!」  わたしは悲鳴を上げると足を蹴り上げてハルキ様に抱きついた。 「うおっ! どうした⁉」 「な、なんですの⁉」  驚く二人の声に、わたしはハルキ様にしがみつきながら叫んだ。 「虫! おっきな虫が!」 「え⁉ 虫⁉ ど、どこですの⁉」  慌てるチエリさんの声がしたかと思うと、「きゃっ」という短い悲鳴とともに何か大きな箱が倒れるような音がする。  音のほうに目を向けると、そこには大きく口を開けたクーラーボックスの横で尻餅をついている彼女の姿があった。そして彼女の上では、何やらぬめぬめとした大きな固まりが蠢いている。 「いたたたた。もう、何ですの?」  事態を飲み込めていないチエリさんのお腹の上で、その固まり――軟体動物八腕類上目マダコ科に属する世界最大のタコは、自らの触手を彼女の胸や足のほうへとウネウネと這わしながら伸ばしていた。 「なんだか、お腹が冷た……」  そこまで言ってチエリさんの動きが止まる。彼女とタコの目が合って、タコは挨拶をするかのように触手をウニョウニョと動かした。 「ひぃいっ! ハ、ハルキさん⁉ これ、なんとか……て、ちょっと⁉ どこを触って。ひゃっ!」 「ハルキ兄様! チエリさんを助けないと!」  わたしは急いでチエリさんに駆け寄ろうとする。でも、それをハルキ様が強く抱きしめて拒んだ。 「ダメだ! ヒガン!」 「ハルキ兄様⁉ 今は、そんな……。離れたくないのはわかりますけど、でも……」 「いや、なんだ、おまえの、その、水着が……」  言われて、わたしは自分の体を見る。そこにはハルキ様の体とわたしの間で潰れた自分の胸と、その下で紐のように丸まった水着の姿があった。 「きゃあっ!」  わたしはしゃがみ込んで、慌ててチューブトップを元の位置へと持ち上げる。すると、地面から恨めしげな声が聞こえてきた。 「エロコメ展開とは、まったく、のんきなものね」  声のほうに目を向ければ、レジャーシートの上に置かれたスイカの横で、生首状態のキクノがつまらなそうな瞳をこちらに向けていた。