【エピローグ】 「ただいまっと」  カブト様の懐かしい声に目を開けると、そこは見たことのない部屋だった。壁も床も真っ黒で、それ以外は何も無い。 「おかえり。カブト」  後ろから聞こえた声に振り向くと、そこには白いスーツ姿の男が立っていた。 「ああ、カオル、ただいま。まだ、全員じゃないみたいだね」  見回して言うカブト様に、カオルと呼ばれた人は目の前に展開したコンソールを見たまま、つまらなそうに言う。 「帰還ゲートはこっちに設定してあるから、その内戻ってきますよ」  少し長めの前髪から覗く細い瞳を、彼はちらりとわたしに向ける。そこでわたしは思い出した。 「ああっ! エロ神!」 「誰がエロ神ですか⁉ 私は死神です!」  彼は、拳を握りしめて抗議の声を上げた。その肩に手を置きながら、カブト様が不機嫌な顔をする彼の紹介を始める。 「彼はカオルって言って、僕の後輩でね。死創機関の境界対策室長なんだ。今回は彼にも協力してもらったんだ」 「まったく、先輩は人使いが荒くて困ります。今回は私に執事役までさせて……」  文句を言いながら彼は再びコンソールへと向かう。すると別の声が聞こえてきた。 「今の話ってマジ?」  その聞き慣れた声に目を向けると、そこには驚きの表情を浮かべるキクノがいた。 「執事って、あんたが……」  指をさす彼女に、カオルさんは口の端をつり上げて少し楽しげに言う。 「ええ、見ていましたよ。見事に夕日へ飛んでいきましたよね。キクノ主任?」 「そんな……、あんたが、あの老執事⁉」 「はい。お嬢様」  愕然とするキクノの前で慇懃なお辞儀をしながら、彼は悪魔のような笑みを浮かべた。 「そんなぁああああああ!」  キクノはその場に崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。 「で、ヒガンの症状は?」  そんなキクノを無視して告げられた自分の名前に、わたしはカブト様へと視線を戻す。彼はわたしの視線に気づいて微笑むと、カオルさんの近くへと歩いて言った。そして、真剣な眼差しでコンソールを見つめるカブト様に、カオルさんは少し面倒臭そうな感じで答え始めた。 「現状のデータを見た限りでは大丈夫でしょう。まあ、あれだけの荒療治をしたんですから効果がなくては困るのですが……。それから、あとで専門医にも必ず診てもらってくださいよ?」 「ああ、わかった」  それだけ言うと、カブト様はわたしのほうへと来る。そして大きく両腕を広げると、そのままわたしを抱きしめた。 「カブト様⁉」  驚くわたしの耳元で彼は「よかった」と何度も囁いて、強く優しくわたしの体の感触を確かめてくる。  戸惑うわたしを、復活したキクノとカオルさんが温かい眼差しで見つめていた。  状況の説明を求めるようにキクノに視線を向けると、彼女は困ったように苦笑を浮かべながら言う。 「あんた、カイホウシンドロームだったんだよ」 「え?」  その言葉の意味を理解できずにいるわたしの肩を、カブト様の大きな手がしっかりとつかむ。そして、見上げるわたしの視線の先で、彼は目尻に涙を浮かべながらゆっくりと噛み締めるように頷く。 「カブト様……」 「それも、もうおしまいだ」  少し震える声でそう言って、彼はわたしの唇を人差し指で優しく押さえた。  すべての疑問がソーダの泡のように弾けて消えていく。  揺れる視界にわたしは俯いて涙を拭うと、深呼吸をして息を整えた。そして、彼を見つめて、とびきりの笑顔で言う。 「うん。カ・ブ・ト♡」 「まったく、見てらんないよ」  キクノの声が後ろからわたしを冷やかす。でも、そんな彼女にも今の幸せを分けてあげたくて、わたしは飛び跳ねるように振り返った。すると、目の前にカブトと同じブルーブラックのきれいな長髪が現れて、開口一番、カブトに向かって文句を言った。 「兄様、ひどいですよ。あんな別れ方なんて……」  それはフェル先輩だった。彼女はカブトを睨んで頬を膨らませる。 「いや、たまたまいたからさ」 「もう……」  いたずらを叱られた子供のような彼の顔に、フェル先輩はため息をついて「今回は特別ですよ」と言った。そして、今度はわたしのほうを向いて口を開く。 「あのさ、ヒガン……」 「……なんですか?」  久しぶりに見る彼女の瞳はどこか怯えるようで、わたしも、思わずよそよそしくなってしまった自分の口調に困って下を向く。視線の先では、先輩の艶やかな髪が微かに揺れていた。 「あのときは、その……」  先輩の声に、わたしは思い切って顔を上げる。お互いの視線がぶつかって、揺れる彼女の瞳をわたしは真っ直ぐに受け止めた。 「ごめんね」  先輩の優しい言葉が、しみるように心を温かくしていく。 「あの、先輩、気にしないでください。あのことがあったから今があって、わたしは今、幸せですから。だから、むしろ先輩には感謝しているんです」  そう笑顔で答えて、わたしはみんなにも自分の気持ちを笑顔で伝えていく。 「まったく、これでやっと、あたいたちの苦労も報われるってもんだよ」  キクノの言葉にカオルさんは大きく何度も頷くと、一際大きくため息をついて肩を竦める。そして、わたしとカブトを見て心底疲れたように言った。 「本当に、あなたたちには困ったものです」  彼の呆れた顔に、でも、わたしとカブトは笑顔で応える。それを見て彼は少しぎこちない笑みを浮かべ、周囲もつられるように笑顔になっていく。  わたしは思う。これが泡のように消えてしまう笑顔だとしても、些細なことで傷つき壊れてしまうものだとしても、それを積み重ねて続いた今が不幸でないと思えるのなら、それは無駄ではなく、自分にとって必ず意味のあることなのだと。  きっとこれから、わたしは何度も彼を傷つけ、そして何度も彼に傷つけられていく。でも、お互いに傷つけ合った先に、それでもわたしは彼といたいと思うから、不幸でないと今思えるから。こんな傷つけることを許し合う関係が、生まれては消えてしまう泡のような関係が、今のわたしには酷く刺激的で、体の奥から温かくなるほどに嬉しかった。        了