『いつもの日常』  視線の先には澄みきった空が広がり、陽の光に溢れた雲の上で私は風に揺られていた。雲の海原は遙かに続き、乱反射した柔らかな光に世界は満ちている。穏やかに流れる時間の中で、私の体は風に舞う羽のように揺らめいていた。  漣のような揺れは心地好く、しかし次第にそれは大きくなり、左右だけでなく上へ下へと揺れ始めた。気がつけば光に溢れた世界は一変し、雷雲轟くモノクロの世界へと変わっていた。  起き上がれないほどに激しさを増した揺れは、ついには純粋な垂直運動となり、それは大きさを増すばかりで衰える様子はなかった。揺れとともに膨らむ恐怖に焦り始めたとき、私は一つの声を聞いた。 (僕を見捨てないで)  その悲しげな声に、私の感情は停止した。  しかし、次の瞬間には私の体は重力から解き放たれ、勢いよく独楽のように回っていた。きっちり三回転半。そして、下を向いた顔に激痛が走った。      ◆ 「それは深架が悪いな」  一階に降りてみれば、朝から会いたくない男の声が聞こえてきた。 「私の何が悪いんだ?」 「決まってるだろ、お前の……て、その鼻どうかしたのか?」  私の鼻に貼ってある絆創膏を見て、琉史がわざとらしく訊いてくる。 「うるさい」 「まあ、鶫ちゃんがせっかく起こしに行ったのに無視したんだ。自業自得ってやつだな」 「それで強制トリプルアクセルは勘弁して欲しいな」  琉史の横では、仁王立ちした鶫が琉史の言葉に深く頷いていた。 「それより、こんな早い時間に何しに来たんだ」 「何って、きれいな花を愛でに」  鶫の頭に手を乗せて言う琉史に、鶫は顔を赤くして俯いてしまった。 「買わないのか」 「まだ開店前だろ」 「客じゃないなら帰ってくれ。準備の邪魔だ。鶫もキッチンの鍋が呼んでるぞ」  鶫は激しくふたを鳴らす鍋のもとへと駆け出し、琉史は鶫に向けていた視線を私に向けると、「またな」と意味深な笑顔で言って去っていった。  そして、いつもの日常が動き始めた。