【第四章】  螺旋階段の周囲に沿って空間障壁をくり抜き、俺たちは無事に階段の最下部までやって来た。  そして、目の前にそびえる巨大な銀の扉の前へと来たのだが、 「びくともしないわね」  案の定、扉はチルトの馬鹿力をもってしても開かなかった。  周囲を見てもスイッチなどは見当たらず、岩壁が螺旋階段を中心に円筒形に真上へと続いているだけだった 「じゃあ、クウロ。ここも頼む」  そう言ってシンが俺の肩を叩く。  壊すのは気が引けたが、ここまで隠し扉や空間障壁を破っておいて今さらかと思い直し、俺は二人を下がらせるとハクセンを脇に構えてワードを放つ。 「閉紋:千里刃!」  同時に人が通れるくらいの円を刻器で扉に描けば、それは大きな二つの半円となって扉の向こう側へと落ちて重い轟音を響かせた。  扉に開いた穴の向こうには薄暗いながらも明かりがあり、洞窟のような空間が広がっている。左右には遠くに岩壁があり、その天井は見えないほどに高く、星のない夜空のように真っ黒だった。 「おお、なんでも切れるな」 「すっごーい!」  感嘆の声を上げる二人を尻目に、俺はハクセンを握りしめながら心の中で叫んでいた。 (おお、やっぱり、これ、すげぇ気持ちいいな!)  思い通りに断ち切れる心地よさと頭痛がしないという幸福感に、自然と顔がにやけそうになり、なんだか手当たり次第に切ってみたいという衝動に駆られる。 (もっと……、もっと切ってみたい!) 「ねえ、クウロ。あそこにいるの、人じゃない?」  しかし、チルトの声に俺はハッと我に返ると頭を振って衝動を振り払い、彼女が指さすほうへと目を向けた。  そこには大分離れた位置に光を放つ幾つものディスプレイがあり、それらは一つの大きなコンソールとして角張った影を形づくっていた。そして、そこから伸びた大小様々なケーブルをたどれば、さっきの扉と同じ銀色をした無機質なテーブルへと繋がっている。  その銀のテーブルには人影が横たわっていて、 「あれって……」  目を凝らしていたチルトが息を呑む。 「……ナル⁉」  そう友人の名を叫んだ次の瞬間には、チルトは既に駆け出していた。 「チーちゃん! ちょっと待って!」  呼び止めようと伸ばしたシンの手は彼女の起こした風を撫でただけで、しかし、すぐに銅鑼のような音が響く。 「いったぁああい……」  音のほうを見れば、すぐそこで呻きながら鼻を押さえてうずくまるチルトの姿があった。 「だから言ったのに……。何があるかわらかないんだから気をつけないと」  そう言ってチルトの隣に立ったシンは、目の前の空間をドアでもノックするように拳で叩く。  するとドンドンと何も見えない場所から音が響いた。 「透明な壁みたいだな。音からすると分厚い感じだが……」  見えない壁越しに銀のテーブルへと視線を向けながら、シンは感想を口にした。 「もー、なんなのよー。クウロ、さっさとこれも切っちゃってよ」  うずくまったまま涙目で言うチルトに、俺は思わず口元が歪みそうになるのを堪え、 「任せろ。さくさくっと終わらせてやる」  そう言ってハクセンを片手で軽く一振りしてから、壁に向かって地面から真上へと縦一文字に剣線を走らせた。 「閉紋:千里刃!」  そのまま四角形を描くように横へ、下へ、最後に地面に沿って刻器を振るう。 《始錠:閉紋→来相転移》  刻器の声が俺のイメージを目の前に展開していく。 《構過:来相@事象範囲》  見えない壁は四つの直線によって切断され、 《顕現:事象∽千里刃》  そして、四角い穴が現実として刻まれる。 「よし、開いたぞ」  手応えを感じて気持ちよく笑顔で振り返れば、その横を再び一陣の風が駆け抜けた。  そして直後に大きな銅鑼の音が鳴る。 「いったぁあああい……!」  チルトの声に振り向くと、今度はおでこを押さえて彼女が床に転がっていた。 「あれ?」  呆然とする俺に、シンが横で空中をドンドンと叩きながら言ってくる。 「クウロ。切れてないみたいだが……」 「ちょっと、クウロ! ふざけてるの⁉」  チルトは起き上がると、拳を握りしめて俺を睨みつけた。 「いや……、確かに術は発動したんだが……」  にじり寄るチルトに気圧され、俺の背が見えない壁に押しつけられる。  すると、そんな俺の背後から声が聞こえてきた。 「なんだ? 騒がしいな。レリーズ・シードに何をしている?」  それはレクトの声に似ていたが、口調がどこか変だった。  壁の振動によって声を伝えているのか、背中が痺れるようにざわざわする。  俺は壁から離れようと目の前のチルトをどけようとするが、しかし彼女はぴくりとも動こうとせず、俺の背後へと驚きで見開かれた瞳を向けていた。  その視線を追って俺も振り向けば、コンソールの裏に立つ白衣を着たレクトの姿があった。  彼女は幾つかのケーブルを持ったままこちらを見ている。 「……ナル?」  チルトの口からつぶやくように疑問がこぼれ落ち、しかし白衣の彼女は遠くて聞こえなかったのか首をかしげ、銀のテーブルで横たわる人影へと目をやる。  そして独り言のように、 「ナル……? ああ、この燃料のことか」  そう言ってコンソールの前に移動すると、こちらを無視してコンソールをいじり始めた。 「燃料? あなた、ナルじゃないの?」 「私はB9。ここの維持管理をしている者だ」  問い掛けるチルトに白衣の背中は振り向くことなく答える。 「え? だって……」 「おい。燃料ってどういうことだ?」  チルトの言葉を遮ってシンが問い掛ける。  その声に白衣の彼女――B9の手が止まった。 「……それよりも、おまえ達はなんだ?」  そう言って振り向いたB9は俺たちを興味なさそうに一瞥すると、 「メインゲートから来たということは、どこぞのお偉いさんの関係者……」  そこまで言って、俺たちの背後のくり抜かれた扉を見て黙り込んだ。 「……もしかして、おまえ達、関係者じゃないのか?」  少し眉をひそめて、彼女は今さらな疑念を俺たちに向けた。 「えーと……」  チルトが困り顔で俺を見る。  俺は慌ててハクセンを後ろ手に隠すと、暗く高い天井を見上げて考えを巡らせる。 「いえ、関係者ですよ」  そんな俺たちをよそに、シンは平然とそう言うと笑顔とともに軽く一礼した。  そんな彼に俺とチルトは冷や汗を浮かべながらB9の様子を窺う。  しかし彼女は表情を変えることなく、黙って俺たちを見ているだけだった。  沈黙に固まりかけた空気を壊すように、シンが彼女の横にあるテーブルへ視線を向けてさらに話を続ける。 「我々は、そこで横になっている彼女の友人です」 「そうか」  そう言って納得したように頷くB9に俺とチルトは少し安堵し、シンは胸を張って「そうです」と念を押すように言った。  B9はもう一度深く頷き、そしてため息混じりにこう言った。 「やはり部外者か。幼稚な嘘をつくものだ」  呆れたように首を振る彼女に、俺は「ですよね」と苦笑してハクセンを握る手に力を込めた。  すると、隣のチルトがぽつりと言った。 「嘘じゃない」  彼女を見れば俯いたまま拳を固く握りしめ、それは血の気を失うほどに白くなっている。 「嘘じゃないよ! ナルは私の友達だもん!」  続けて吐き出すようにチルトは言う。  しかし、その言葉とは裏腹に彼女の耳と尻尾はどこか元気なく垂れ下がっていた。  B9は、そんなチルトの叫びにも動じることなく無表情に告げる。 「燃料用パペットに友人などいるわけがないだろう?」  その言葉を俺たちはすぐに理解できず数秒の沈黙が流れ、 「あ、あんた、さっきから何、わけのわからないこと言ってるのよ? ナルを燃料とかパペットとか……」  明らかな動揺を見せるチルトが、うわごとのように言葉を並べる。  それに対してB9は一つため息をつくと、 「わけがわからないのは君たちのほうだ。とにかく、部外者なら放っておくこともできないな」  そう言って右手を掲げるとパチンと指を鳴らした。  すると、上から何か風を切る音が聞こえ始める。  何かと思って見上げれば、そこには闇を埋め尽くすほどの無数の赤い点が不気味に光っていた。 「せっかくだから、君たちにも燃料になってもらおう」  そしてB9は、もう用は無いとでも言うように俺たちに背を向けると、再びコンソールをいじり始めた。        ◆ 「ね、ネズミ⁉」  見上げて言ったチルトの第一声はそれだった。  ライトを向ければ、大量のネズミが雨のように振ってくる。  俺はハクセンを下段に構え、シンはチルトを抱えて扉の穴へと走り出す。  目の前の見えない壁から扉までは走って数秒。  しかしネズミの群れは上空をびっしりと埋め尽くし、赤い吊り天井のように落ちてくる。 「閉紋:千里刃!」  俺は言葉とともに、押し寄せる赤黒い壁を切り払う剣線をイメージする。 《始錠:閉紋→来相転移》  しかし術が発動する前に、赤の群れが俺のイメージをなぞるように二つに分かれる。 《構過:来相@事象範囲……例外発生×刻奏術停止》 「うそっ! 尻尾を噛んで引っ張ってる⁉」  ハクセンの言葉に続いて、シンに抱えられたままチルトが驚きの声を上げた。  迫るネズミに目を凝らせば、尻尾で互いに繋がり網のようになっている。  そして、みるみるうちに網の切れ目は端から繋がり消えていく。 「点の集合に線の攻撃じゃダメだ! 一旦こっちに来い!」  シンの声に俺は二人の後を追おうと踵を返す。  流れる視線の中、壁の向こうのB9は相変わらず背中を向けて作業をしている。 「クウロ! 急いで!」 「くそっ!」  チルトの呼ぶ声に、俺は急いで二人のもとへと走った。  上からは、風圧とともにチチチという鳴き声の重奏が滝のように落ちてくる。  走りながらも思考を巡らせ、俺はハクセンの感触を確かめるように握り直した。 (こいつの剣線では面には不利。それなら……でも)  さきの失敗が頭をよぎり、せっかく思い浮かんだイメージも不安に歪む。  しかし、そのとき手にしたハクセンの表面を一瞬光が走り、霞みがかっていたイメージが切り裂かれるように霧散した。  俺は明確なイメージとともに口の端をつり上げると、辿り着いた扉の穴に足をかける。  そしてハクセンを水平線を見回すように後ろへと、ネズミの群れに向かって振り抜きワードを叫ぶ。 「閉紋:千里刃ッ!」  目の前、横一直線に並んだネズミの網を視界に捉え、俺は端からなぞるように刻器を振るう。 《始錠:閉紋→来相転移》  剣線がネズミの地平と完全に重なり、 《構過:来相@事象範囲》  端から切断の未来が過去へと変わっていく。 《顕現:事象∽千里刃》  そして導火線の火花のように、ネズミが血しぶきを上げていく。 「うわっ⁉」  為す術なく大量に降り注ぐ血の雨を浴びながら、俺は顔を腕でかばって地面を見る。  そこには赤い光を失った小さな黒い塊が、まさに死屍累々の有様で一面を埋め尽くし、鉄の臭いをまき散らしていた。 「チーちゃん、大丈夫?」  聞こえた声に後ろを見れば、どこから出したのかシンが大きな傘でチルトと相合い傘をしている。 「おい、おまえら……」 「ちょっと⁉ 血まみれでこっちに来ないでよ!」  扉の穴を越えて二人へ近づこうした途端、チルトは慌ててシンの背後に隠れ、シンは傘を畳みながら、 「水も滴るいい男じゃないか」  そう愉快そうに言った。 「まったく……」  俺は自分の体を見直してため息をつくと、取り敢えず湿って重くなった後ろ髪を絞って軽くする。そして、B9のほうへと視線を戻した。  目の前には血しぶきで描かれた赤い帯が浮かぶように横たわり、下へと無数の滴を垂らしている。  しかし滴るそれが突然、一斉に動きを止めた。 「ん?」  疑念に目を凝らせば、落ちかけた滴は透明な壁を這うように昇り始め、そして帯状の血とともに壁から浮かび上がる。 「何なの、あれ?」  チルトが疑問を口にするが、その間も大量の血痕は次々と壁から離れていく。 「あの動き、まさか……」  そうシンが驚きを口にした直後、宙に浮いた赤い液体が重力を思い出したかのように一斉に地面へ落ちた。  塗料の入ったバケツをひっくり返したような音ともに、鉄の臭いが再び強くなる。 「何が起きた?」  目の前の現実を理解できず、何も無くなった透明な壁を呆然と見つめていると、 「きゃっ⁉」 「うわっ⁉」  今度は後ろから驚く声が聞こえ、俺の隣へシンとチルトがやって来る。  何事かと思って後ろを向けば、扉から切り抜いた銀の半円が二つとも浮かび上がり、音も無く扉の穴へとはまる。そして、傷跡さえも消えていく。 「……時間が、巻き戻っているのか?」  そうつぶやくように言ったのはシンだった。 「ほう。よく観察しているな」  答えた声は俺でもチルトでもなく壁を通してのもので、B9は作業を続けながら世間話のように話し始める。 「君たちのいる空間にはレリーズ・シードという術がかけてあってな、現相炉による研究成果を応用したものだ。未来を過去へと確定させる閉紋の逆、過去を未来へと巻き戻す開紋(レリーズ)による現象の無効化だ。まあ、範囲が固定で常時発動できないことが課題だが……」 「開紋だと! そんなことをすれば過去の連鎖崩壊を招くぞ!」  シンが青い顔をしてB9に叫んだ。 「シン、どういうこと?」  チルトの疑問にシンはB9を見たまま答える。 「開紋は門から鍵を引き抜く行為だ。鍵を引き抜けば門は崩壊し、確定した過去は未確定の未来へと還元される。でも、門の連結構造体である過去の一部を破壊するということは、それに連なる過去をも壊しかねない」  そこまで言ってシンは息を呑み、その頬を冷や汗が流れ落ちる。 「最悪、世界の根幹である過相軸にでも崩壊が到達したら世界が消える」 「うそ、そんな……」  チルトが愕然とするが、そこでシンと俺は違和感を覚えて彼女を見た。 「……て、チーちゃん? 開紋は刻奏術の禁忌だって講義で習ったよね?」 「チルト……学園に来てるの、本当におまえか?」  呆れ顔で言う俺達の視線に、チルトは慌てて否定を口にする。 「行ってるよ! 休まず講義受けてるよ! 皆勤賞だよ! 私は幽霊じゃないからっ! 七不思議とかじゃないから!」  真っ赤な顔で必死に言う彼女に脱力しつつも、俺は気を取り直してB9へと視線を戻して訊いた。 「まあ、そんなことよりB9、禁忌に触れるような実験をしているなんて部外者に話してよかったのか?」 「おまえ達は燃料になる。まさか、この状況で帰れると思っていないだろう?」  そう言うとB9はテーブルに横たわるレクトを一瞥し、白衣から出した携帯端末を操作し始める。  すると、テーブルがゆっくりと浮かび上昇を始めた。 「ちょっと! ナルをどうするつもり⁉」  チルトの声にB9は浮かび上がるテーブルを眺めながら、 「どうするもなにも、これは燃料なのだから燃料として使うに決まっている」  そう言って作業を続ける。  テーブルはB9の背丈を越え、そこで俺は奥に何かあることに気がついた。 「何だ、あれは……?」  壁だと思っていたそれは緩やかな曲面を描き上下左右に広がって、 「おい、クウロ……」 「おっきな……ボール?」   その表面を滑るように、レクトを載せたテーブルが上昇していく。 「ナル! 待って!」  チルトが走り、見えない壁に拳を叩きつけて叫ぶが状況は変わらない。  テーブルは球体上部へと移動し、近くの表面に丸い開口部が現れる。  直後、鼓動のような不気味な低音が響き始め、それは腹を空かせた巨大な獣の息遣いのように思えた。 「ナル! 起きてよ! ナルッ!!」  チルトは必死に何度も何度も壁を叩いてはレクトの名を呼んだ。  シンは球体を見つめたまま腕を組み、俺は奥歯を噛んでハクセンを強く握りしめる。  さっきの血の帯を見る限り、目の前の障壁は左右の岩壁まで続いている。それに、下手な攻撃でこれ以上レリーズ・シードの効果を発動させるわけにはいかない。  だが、目の前に助けるべき人がいて逃げることができないのなら、迷わず前に進むしかない。 (ここで諦めたら、しばらく頭痛にうなされそうだしな)  隣では、チルトが拳を腫らしながらレクトの名を呼び続け、シンは懐から幾つもの符を取り出して思案している。 (俺も考えろ。今、自分にできることを)  手にしたハクセンに力を込めるが刻器は何も応えない。  そんな俺たちに、B9はコンソールを操作しながら言った。 「そうそう。希望は大事だ。絶望してしまっては燃料にもならないからな」        ◆  クウロ達の後方、銀色の巨大な扉の近くで男――ウェイス=レクトは光学迷彩の符を使って身を隠しながら成り行きを見守っていた。 (どういうことだ?)  ナルの残したマーカーを追って廃校舎に来てみれば、そこには既に彼らがいて、ウェイスは仕方なく彼らの後を追うことにした。  途中、ナルの報告にはなかった空間障壁があったが、それを彼らは刻器を使って突破し、今はB9と名乗る管理者と対峙している。 (……彼らは、一体何者だ?)  ウェイスは、長髪の男が持つ白い剣のような刻器を見て考え込む。  学園生の身で刻器を持ち、しかも術まで行使できる者がいるなど聞いたことがない。  そして、その横で泣きそうになりながらナルの名を呼ぶ少女。  フィッツ出身であることが一目でわかる猫耳とその尻尾を見て、ウェイスは自分の妻でありナルミの母親でもある女性のことを思い出していた。  彼女は白狐の臓器付加で、ナルミには白髪と青い瞳しか受け継がれなかったが、そのことをウェイスは喜び、しかし母親は微笑みながらも瞳にはいつも心配の色を浮かべていた。  娘がスフィアへ行くと言い出したときも、母親は行って欲しくないような顔をしながら、それでも何も言わなかった。  村から出ればフィッツの娘というだけで偏見の目にさらされる。  その現実と向き合い、それでも未来を自分の力で切り開いて欲しい。  そんな願いを実力主義の刻奏士という職業に託し、ウェイスも母親も娘を見送った。  しかし、娘が刻奏士となって再び二人の元に戻ることはなかった。  元々寿命が短い傾向にある臓器付加である母親も、そのあとを追うようにこの世を去った。  今、目の前でナルの名を呼ぶ少女が、ウェイスの目には娘を呼ぶ母の姿と重なって見える。 (……ハルミ……)  胸を押さえて俯けば、手にした携帯端末にはナルからの情報が今もリアルタイムで流れてきている。  ナルがこのまま現相炉の中へと入れば、さらに詳細な情報が手に入るだろう。  しかし、ウェイスはB9が言った言葉を思い出す。 (……燃料……)  ナルが最後の通信で言った「人体実験の決定的な証拠が手に入る」という言葉の意味を、ウェイスは今まさに球体へ呑み込まれようとしているナルを見ながら噛み締めた。  恐らく娘に起きたであろうことが今、目の前で再現されようとしている。 (……ナルミ……)  ナルが娘でないことはわかっている。それでもウェイスの脳裏には娘の名前が浮かんだ。 「ナルっ! 目を覚ましてよっ!」  臓器付加の少女が叫んでいる。  彼女は、なんであんなにナルの名前を必死に呼んでいるのだろう。  ナルとは、どんな関係なのだろう。  ナルミにも、彼女のような人はいただろうか。  思考が渦巻きぼーっとし始めたウェイスの手の中で携帯端末が震える。  彼は我に返ると、頭を振って再び端末へと視線を落とした。  ナルが送り続けているこの情報があれば、恐らく事件の真相に大きく近づけるだろう。  そうであれば確実にナルは犠牲になる。が……しかし、所詮はパペットだ。しかもB9が言うように現相炉の燃料用としてつくられた存在だというのなら……。 (そう。これは犠牲じゃなくて必要な代償だ)  そう考えればいいと、このままで問題ないのだと、ウェイスは一つ息をついて自分に言い聞かせる。  そのとき、ウェイスは画面の表示に見慣れない文字があることに気づいた。 《オトウサン》  その言葉にウェイスは、ゆっくりと視線を現相炉の上部へ向けていく。  そこには上空で佇むテーブルがあって、その後ろ、何も無い黒い球体の上には白い人影が浮かんでいた。 「……ナル、ミ?」  思わず漏れたウェイスの声に茶髪の男とB9が視線を向ける。  そのことに「しまった」と思いながらも、ウェイスは端末に向かって叫んだ。 「ナル! 情報はもういい! 今すぐ脱出しろっ!」  それに対して最初に口を開いたのはB9だった。  白衣の少女は、ウェイスのほうに視線だけを向けたままぽつりと言った。 「今日は燃料が多く届く日だな」        ◆ 「ねえ、あれって……」  チルトが宙に浮かぶテーブルの背後を指さし、シンもそちらを見ながら口を開く。 「おいおい、今度は幽霊かよ」  その白い影はレクトを乗せたテーブルをすり抜け、そのまま俺たちを見下ろした。 「まだ分解されていなかったのか」  B9はそう言って白い影を一瞥すると、何事もなかったかのように作業を続ける。  しかし、直後に男の呟くような声が聞こえ、その動きはピタリと止まった。 「ナルッ! くそっ! なんでこんな……!」  振り返れば、空間から浮かび上がるようにミリタリーコートを着た男が現れる。 《皆さん、レリーズ・シードを解除しました。今のうちに逃げて》  すると今度は女性の声が頭に響き、B9の言い捨てるような言葉がそれに続く。 「死に損ないが……。いつの間にシステムに介入した?」  いきなりの展開に戸惑う俺たちをよそに、コート姿の男がレクトへ向かって走り出す。  ぼさぼさの黒髪を揺らしながら、男は懐から一枚の符を取り出し、 「閉紋:トライスリープ!」  ワードとともに姿を消した。 「逃げるぞ! ナル!」  次に聞こえた声は遙か上空、レクトがいるテーブルから聞こえ、そちらを向くと男は既にテーブルの上でレクトの上半身を抱きかかえていた。 「え? うそっ、いつの間に⁉」  驚くチルトに構わず俺とシンは動き始める。 「クウロ! 退路を頼む!」 「了解! 二人は早くレクトの所へ!」  チルトを脇に抱えて走り出すシンを横目に、俺は背後の扉へ振り向き叫ぶ。 「閉紋:千里刃ッ!!」  見える限り最大に円を描き、さらに中を細かく縦横無尽に切り刻む。 「乱!切り!」  そして結果を見ることなくシンの後を追って走り出す。  背後から滝のような轟音と振動が押し寄せる中、目の前ではシンが暴れるチルトに顔をひっかかれ、上空を見ればコート姿の男がレクトの体を揺さぶって呼びかけている。 「おい、ナル! 目を覚ませ!」 「そいつらを取り押さえろ。ファントム」  B9が、どこへともなく命令を告げた直後、コンソールの裏手や周囲の暗闇から幾つもの人影が蠢くように現れる。  それは、どれも皮膚の一部がなく、筋肉や内臓までもが剥き出しになっていた。 「まったく、今度は動く人体模型かよ。今日は七不思議のオンパレードだな」  二人に合流すると、シンはそう言ってため息をつきつつチルトを横に下ろした。  ファントムと呼ばれた人体模型は、今までどこにいたのかと思うほどの数で壁のように群れをなし、俺たちを何重にも囲んで立ち止まると、何度かその場で足踏みをしてから一斉にこちらへ向かって突進してくる。  俺は砂煙を上げて迫り来る人形の群れに対して、ハクセンを横一線になぎ払う。 「閉紋:千里刃!」  しかし、直後に人体模型の壁が一斉に飛び上がった。 《始錠:閉紋→来相転移》  それは見上げるほど高く上昇し、前から後ろへ波のように連動していく。 《構過:来相@事象範囲……例外発生×刻奏術停止》  術の失敗をハクセンが告げる中、人体模型が全方位から俺たちの頭上へ津波のように降ってくる。 「ど、どうするのよ?」  見上げながら言うチルトに、 「よし、チルト。あとは任せた」  俺はチルトの肩を軽く叩いてそう返す。 「え?」  俺を見る彼女に、シンも反対の肩に手を置いて、 「特に武器も無いようだし、人形の千体や二千体、チーちゃんの怪力なら大丈夫。それに俺、男に興味ないし……」  そう言うと、俺とシンは息を合わせて別々の方向へと走り出した。 「え? えぇえええええええっ!」  戸惑うチルトを置き去りに、俺は人体模型の波をくぐり抜けるように低姿勢で前へ出る。  横目で友のほうを見れば、シンは茶髪を風になびかせながら一枚の符を手にしている。  そして、その符に軽く口付けするとB9へと投げつけた。  符は空中を真っ直ぐに飛びながら、一輪のバラへと姿を変える。  飛んできた深紅の花を、B9は振り向くことなく人差し指と中指で挟んで捕らえ、 「攻撃のつもりか?」  一瞥すると興味なさげに投げ捨てた。 「とんでもない。ただのプレゼントですよ! 閉紋:フォー・ユー!」  B9へと走りながらシンがそう答えた直後、バラから赤い光が放たれ、それは幾つもの緋色のリボンとなって足下からB9の体を縛りつける。 「これは……」  動けなくなった自分の体をB9は静かに見下ろし、そこへシンが到着する。  彼は綺麗にラッピングされた人形のようなB9を見つめると、 「プレゼントは、あなた自身ですが」  そう言って慇懃に一礼し、B9からコンソールのほうへと視線を移した。  モニターや計器類を一通り見回し頷くと、シンは俺のほうへと自信ありげな笑みを浮かべる。 「システムの掌握はなんとかなりそうだ。ナルさんの救出は任せた!」  俺は走りつつ友に頷き返すと、頭上に横並びで落ちてくる人体模型――ファントムを視界に捉え、ハクセンで横一文字に切断する。 「閉紋:千里刃!」  ネズミとは違い、線で落ちる模型はうまくかわせず、イメージどおりに連続して真っ二つになっていく。  しかし、ファントムだらけの状況は変わらない。  巨大な球体上部では、レクトを抱えた男がテーブル上で別のファントムと対峙していた。 (どうやってあそこまで行けばいいんだ?)  次々と迫るファントムを直線で結び上下に割断しながら、俺はレクトへ続く道を探して周囲を見回す。 「クウロ!」  突然聞こえたチルトの声に振り向けば、顔の横を何か塊がかすめ、そのまま遠くでドスッと鈍い音がする。 「それ、足場に使って!」  続けざまに言う彼女の指すほうを見れば、岩壁にファントムが頭から真っ直ぐ突き刺さっていた。  垂直に壁から生えた人体模型は、しばらくするともがくように動き始めるが、胸までずっぽり埋まっていてなかなか抜けそうにない。 「まさか、これに乗れって言うのか⁉」 「ほら、次っ!」  問答無用で、次の足場が俺の頭上をかすめて壁に突き刺さる。  さらにチルトは近くにいたファントムの足を掴んで振り回し、 「うっにゃにゃあぁああああああああああああああ!」  咆哮とともに人体模型をマシンガンのごとく次から次へと射出する。  階段状に見事に突き刺さっていく様子に感心しながら、行く手に立ちふさがるファントムを切り捨て即席の足場へ飛び上がれば、しっかり打ち込まれた硬い模型の体は抜け落ちることなく意外と安定感があった。 (手足をばたつかせていることを除けば、だが……)  不気味な見た目は無視することにして、俺はそのままファントムの腹や背を次々と踏んで壁沿いに駆け上がる。  打撃マシンと化したチルトはシンの近くまで移動し、シンは彼女に護衛されつつコンソールに自分の端末を繋いでシステムの掌握を進めている。  それに対してB9は、リボンでラッピングされたまま暇そうにただ俺のほうへと顔を向けていた。  その瞳に不気味なものを感じながらも、今はレクトの救出が先だと前を行く。  この地下空洞全体は半円筒形で、弧を描いた壁が球体を包み込むようになっている。しかし、一番近い部分でも壁から球体へと飛び移るにはぎりぎりの距離だ。  チルトは足場を球体上部までつくってくれているが、上部に行くほど今度は球体の曲面のせいで壁との距離は開いてしまう。  どうしたものかと目的地であるレクトのテーブルを見たとき、俺は自分の目を疑った。 (レクトが二重に見える?)  よく見れば、周囲の男もレクトを載せたテーブルも、さらにはレクトの近くに浮かぶ幽霊女でさえも、像が二重になって輪郭がぼやけたようになっている。  しかし、チルトやシンのほうを見れば、そちらはぼやけることなく普段どおりに見えている。  俺は走りながら、再び視線をレクトのほうへと向けた。  ものが二重に見えるのは浮かんだテーブルの周囲、特に球体の開口部に近づくほどに輪郭はぼやけ、白い靄のようにはっきりものを捉えられなくなっていく。  それは何か得体の知れないものが球体から漏れ出てレクトを呑み込もうとしているようで、俺は胸騒ぎを覚えて叫んだ。 「おい! レクト、早くそこから逃げろ!」  しかしレクトの反応は無く、彼女を抱きしめる男も俯いたまま何も言わなかった。        ◆ 「ウェイス……様?」  自分を抱き起こして見下ろす男の名を呼んで、レクトは彼へ手を伸ばそうとする。しかし、指先が少し動いただけで手が男に届くことはなかった。  短く息をついて周囲に目を向ければ、白くぼやけた風景の中、男の目鼻立ちや輪郭さえも二重に見える。  レクトは春の日差しを思わせる気怠い心地好さに身を委ねながらも、同時に背筋に張り付くような悪寒に戸惑いを覚えていた。  青白い顔をしたウェイスは視線を下げ、手にした一枚の符を見て呆然と疑問を口にする。 「なんで……術が発動しない?」  祈るように符を握りしめて、彼は再びワードを口にする。 「閉紋:トライスリープ!」  直後、ウェイスの目の前で遠くの景色が近づいてくるように大きくなり、しかし、それは一瞬で元に戻る。そして、本来役目を終えれば消えるはずの符も消えることはなく、変わらず手の中にある符を見つめたままウェイスは黙り込んだ。  そんな彼を見上げながら、レクトは目の前の状況を理解しようと記憶を呼び起こす。  自分は現相炉の燃料になろうとしていて、その自分のそばにマスターがいる。そして、マスターは脱出用の符を使おうとして、術は発動しなくて、周囲は……、空気というか空間自体が何か変で……。  そこまで考えて、レクトはウェイスの背後にうっすらと人影があることに気がついた。  それは霧でできた陽炎のようで、そのシルエットは長い白髪を背中に流した少女に見えた。その顔に浮かぶ二つの青い瞳は、静かにウェイスへと向けられている。 (……あの、画像の女の子に、似てる……?)  頭にふと浮かんだのは、マスターが携帯端末で時折眺めている一枚の画像のことだった。  たまたまそれを見たレクトはその少女のことを訊いてみたが、何度尋ねてもウェイスはいつも話をはぐらかして決して教えてくれることはなかった。 「あなたは……誰?」  レクトはかすれた声で少女に尋ねる。 「…………」  しかし少女は何も言わず、少し悲しげな笑みを見せるだけだった。  気がつけば、ウェイスも振り向いて少女を見ている。  その顔には少女と同じ表情が浮かんでいて、レクトは見つめ合う二人を遠くに感じるような気がして、そっと目を閉じた。 (やっぱり、私には何も……)  そう思ったとき、レクトの耳に聞き覚えのある声が届く。 「おい! レクト、早くそこから逃げろ!」  そちらへ目を向ければ、揺れる長い黒髪が壁を駆け上がって近づいてくる。  そして、それはレクトと同じ高さまで来た直後、幻であったかのようにこつ然と姿を消した。        ◆ 「さすがに、ここまでだな」  壁を駆け上がるクウロのほうを見ながら、B9がぽつりと言った。  それまで逃げようともせずリボンに巻かれていた彼女の声に、コンソールを操作していたシンは手を動かしつつ、 「お疲れですか? お嬢さん」  そう言って優しい笑みを彼女に向ける。 「そうだな。さすがに全システムを内部に戻すと調整に時間がかかる」  B9は素直に答え、それにシンは怪訝な表情を浮かべた。  すると、どこからかシュルルルと紐をこするような音が聞こえ、シンは音の出所を探って耳を澄ませる。  それはB9の足下からで、細いケーブルが一本、蛇のようにうねりながら彼女の手首へと、そこに開いた小さな穴へ吸い込まれていく。 「……まさか⁉」  シンが慌ててコンソールへ視線を戻した直後、すべてのモニターから光が消え、計器類が動きを止めた。 「これで作業を再開できる」  B9はケーブルをしまい終わった手を一度握り、そしてワードとともに口を開く。 「閉紋:パスカル・ブリーズ!」  声が響いた直後、B9の足下から風が巻き起こった。  白衣ははためき、次の瞬間には鋭い上昇気流が彼女の体を包み込む。そして、体に巻き付いたリボンを一瞬で細切れにした。  リボンの残骸は花びらのように宙に舞い、周囲へと散っていく。 「くっ! 風系の術か⁉」  突風に驚くシンを尻目に、B9は自由になった体を現相炉のほうへ向けて手をかざす。  それを追ってシンが現相炉へと目を向ければ、重い爆発音とともに生まれた爆煙から、撃ち落とされた鴉のように長い黒髪をなびかせクウロが力なく落ちていった。        ◆  俺は風の中にいた。  目の前には、さっきまで足場だった人体模型がいて、頭を失い内蔵をぐらつかせている。 (何が起きた?)  バラバラと手足や内臓をまき散らし始めた人形を見ながら、俺は記憶を巻き戻す。  壁を駆け上がってレクトに呼びかけた直後、俺は巨大な鈍器で殴られたかのような衝撃を全身に受け、そして気がつけば今の状態になっていた。  短い回想を終えて意識を現実に戻せば、既に模型は胴体だけで、人形の後ろにある風景は上下逆さまに流れていく。 (……落ちてるのか?)  周囲を見回し足下を見れば、銀色のテーブルは遠くにあった。 「クウロ!」  急速に戻ってきた現実感を加速させるように、チルトの声が俺を呼ぶ。  声を追って見上げるように顔を向ければ、彼女はファントムの群れを蹴散らしながら俺のほうへと地面を走り、そこで俺は自分に向けられたもう一つの視線に気がついた。  それは俺へと片手をかざしたままたたずむ白衣姿で、 (B9。あいつ、拘束されてたはずじゃ……)  B9の周囲へ視線を向ければ、地面には細切れになったリボンの残骸と何かに押さえつけられているかのように地面に這いつくばるシンの姿がある。 「シン!」  俺の呼びかけに、シンは大丈夫だと言うように顔を上げ親指を立ててみせる。  しかし、そんなシンへB9は俺を見たまま手だけを彼へかざし、直後、シンの頭が巨大な手で押さえつけられたかのように地面へと叩きつけられ、同時に親指を立てていた腕からも力が抜ける。 「おいッ⁉ シン!」  しかしシンの反応は無い。  地面が目前に迫る中、 「B9ッ!」  叫ぶ俺の真下、落下地点にチルトの体が滑り込む。  俺は彼女へと手を伸ばし、チルトは押し寄せるファントムを軽く跳躍してかわすと、さらに集まる人形の群れを踏み台にしてさらに上へ跳ぶ。 「クウロッ!」  呼び声とともに彼女は俺の手を掴み、しなやかな体を軸にして回転を始めた。 「いっけぇええええ!」  引き延ばされた腕が軋みをあげ、落下の勢いは遠心力へと変換される。  そして、その力は俺の体を弾丸のごとく解き放つ。 「クウロケットォオオオオオッ!!」  チルトの叫びに乗って俺はB9へと発射された。  B9までは走れば十秒という距離。しかし、この速度なら数秒で到達する。  ハクセンを下段に構える俺の腕に、B9の品定めをするかのような落ち着いた視線が絡みつき、俺は抗うように腕へと力を込めて、その切っ先をB9へ向ける。  しかし彼女は、すぐに視線を俺ではなく現相炉の上部へ向けた。 (俺に興味はないってことか?)  苛立つ自分を珍しく思いながら、俺は視線を現相炉からB9へと戻し、そこで自分の愚かさに気がついた。  B9の細い腕から伸びた小さな手のひらが、俺のほうを向いている。そして、そこから伸びる五本の細い指が、撫でるようにゆっくりと振り下ろされ、やばいと直感が告げる中、俺は再び巨大な何かで地面へと叩きつけられた。        ◆ 「うぅ、ぐっ……」  象にでも踏まれているかのように全身が悲鳴を上げ、肺の空気が抜けていく。 「刻器を持っているからマスタークラスかと思ったが……」  近くで見下ろすB9の口から漏れる独り言は、やけに鮮明で同時に耳の奥に痛みが走る。  視界には気を失っているシンの姿があり、その体は微かに痙攣しているように見えた。 「シン! クウロ! しっかりして!」  チルトの呼ぶ声がガチャガチャというファントム達の動く音の波に呑み込まれ、徐々に遠ざかっていく。 「おまえ達はそこでおとなしくしていろ。作業の邪魔だ」  そうB9が言うと腹の底を揺らすような破裂音が響き、それに混じってチルトの短い苦悶の声が確かに聞こえ、しかし、それはすぐに地面を叩きつける雨音にも似た大量の人体模型が崩れる音に掻き消された。  俺は地面をこするように頭を動かし、人形の残骸が散らばる地面へと目を向ける。  巨大なおもちゃ箱をひっくり返したような惨状の中、チルトの獣耳と尻尾はすぐに見つかったが、ボロボロの衣服をかろうじて身にまとったその体は、人形と同様に動くことはなかった。 「さて……」  ため息とともに何事もなかったかのようにB9は小さくつぶやき、俺は全身の自由を奪われたまま奥歯を噛み締めることしかできない。 (やる気のない刻奏士見習いが刻器を手にしたところで、たかが知れているということか)  そんな自嘲めいた考えが頭をよぎり、俺はハクセンから手を離そうとして、 「動くな」  しかし、その手はB9に容赦なく踏みつけられた。  思わず漏れたうめき声は全身を押し潰すような力にかすれ、四肢は痺れたように重い。 「おまえ達は、アレのようにそのままでは使えないからな」  本当に使えないなと思いながら、俺はそれでもアレという言葉が気になってB9へと視線を向ける。  B9の腕は上空――レクトがいるテーブルのほうへと向けられ、そこには相変わらず焦点の合わないぶれた空間と、その中に二つの人影があった。  テーブルへと向けられたB9の手のひらはドアノブを回すように動き、それに合わせてレクトと男を乗せたテーブルも球体の開口部側へと傾いていく。  傾きが大きくなるにつれてレクトは足から滑り落ちそうになり、男はそれを捕まえ引き上げようとするが、その間も傾斜はきつくなり、テーブル自体も開口部の真上へと移動していく。  そして傾斜がついに垂直になった瞬間、レクトの体がガクンと開口部へ落下した。 「ダメだっ!!」  男は叫び、すんでのところでテーブルの端に片手をかけたまま、もう一方の手でレクトの腕を掴む。  宙に浮いた銀の板にぶら下がって、レクトの白い髪と男のコートが風に揺れた。 「誰だか知らないが、おまえも邪魔だ」  そう言うとB9はワードを放つ。 「閉紋:パスカル・ブリーズ!」  次の瞬間、小さな竜巻がテーブルごと男を包み込んだ。  竜巻は男を振り回し、レクトの体が振り子のように大きく揺れる。 「ナル!」 「ウェイス様!」  二人は互いに呼び合い、しかし、それを断ち切るようにB9は淡々と告げる。 「おまえは自分の役割を果たせ」  B9が広げたままの手のひらを、握りつぶすように閉じていく。  その動きに合わせて竜巻は細くなり、鋭い風切り音が聞こえ始めた。 「ぐっ、ぐぁああああああああッ!」  男が叫び声を上げ、竜巻からコートの切れ端とともに赤い色がまき散らされる。  そして雨のように降り注いだ鮮血は、レクトの白髪を深紅に染めていく。 「……いやああああああああああッ!!」  レクトの悲鳴に、しかし動く者はもはや誰もいなかった。  B9が拳を開けば役目を終えた竜巻は霧散し、中から引き裂かれたコートでテーブルに縛りつけられた男が姿を現す。  そして、力を失った男の手からレクトがこぼれ落ちていく。  男へ手を伸ばしたままレクトは球体へと呑み込まれ、そのあとを追うように白い幽霊も姿を消した。        ◆ 「……ナル……」  磔にされた男の口から漏れた言葉は、閉じた現相炉の開口部に阻まれ届くことはなかった。  何も掴んでいない自分の手を見下ろしながら、男はそれが何かわからないように呆然と見つめている。  血の気の失せた指先は震え、蒼白な肌に刻まれた無数の傷から滲み出た血は、重力に引かれて彼の腕を染めていく。 「ああ……あぁ、あああ……」  鼓動に合わせて流れる血とともに、言葉にならない声が荒い息とともに押し出され、 「そ、んな……、嘘、だ。俺……は、また……、そんな……」  ようやく出てきた言葉も途切れ途切れで、大きく見開かれた目は何かを求め彷徨う。  視線は無数の散らばる人形と倒れ伏す三人の男女を捉え、そして下から見上げる視線とぶつかった。  その視線を向ける白髪の女に、男は安堵の表情を浮かべ、 「……ナル……」  そう呼ぶが、白衣を着た女――B9は肯定も否定もせずにただ告げる。 「アレは生体燃料としての役割を果たした。悲しむことはない」 「…………」  思考が停止したかのように男から一切の表情が消え、そんな男へ彼女は続ける。 「むしろ、その存在意義をまっとうしたのだ」 「……やめろ」  地の底を這うような声で男が否定を口にする。  しかし、B9は続けた。 「むしろ喜ぶべきこと……」 「やめろッ!やめろッ!やめろッ!」  頭を激しく降り、四肢を激しくばたつかせて男が叫ぶ。  わめき暴れる男を見つめたまま、B9は独り言のように言った。 「所詮、人はただ生きるのみか」  すると急に男の動きが止まり、緩んだ拘束にかろうじてぶら下がった状態で、男は両腕を垂らして黙り込む。  沈黙が二人の間に流れ、その背後では巨大な球体が、変わらず鼓動のような低音を響かせ自らの存在を主張していた。 「さて、片付けを始めるとしようか」  男から視線を外し、B9は周囲を見ると近くにいた茶髪へと体の向きを変える。 「ふっ、ふははは……」  しかし、突如響いた笑い声にB9は怪訝な顔で視線だけを男に向けた。  男は血まみれの手で顔を押さえ、歪んだ口を半開きにしたまま肩を震わせている。 「いい加減、終わりにして欲しいのだが……」  肩を落として言うB9に、 「は、ははは、はははははははははははははははははははははっ!」  男は俯いたまま狂ったように笑い声を吐き出し、 「そうだな。もう終わりにしよう」  一転、落ち着き払った声で彼女に答えた。  その手にはどこから出したのか鍵のような歪な形状をした刃があり、男は躊躇なくそれを自分の胸、心臓の位置へと突き立てた。 「ただ生まれ、そして、ただ死ぬか」  男の行動に眉一つ動かさずそう言ったB9の視線の先で、銀色の刃は音もなく男の胸へと飲み込まれるように消えていく。  そして男は刃の消えた胸に手を当てたまま、 「いや、ただでは死なんさ」  そう言って口の端を楽しげにつり上げた。        ◆  得体の知れない力に押さえ付けられていた俺は、息苦しさにぐるぐると回り始めた視界の片隅で、壊れたような男の笑い声を聞いていた。  頭の中で反響した声は幾重にも思考を覆い、視界の中央では白衣が踊るように歪んでいる。  そして意識が重くまどろみに落ちていく中、笑い声がピタリと消える。  直後、ガラスの軋むような音が耳を突き刺し、その鋭い痛みに目を見開いた直後、背筋を切るような冷たい悪寒が全身を支配した。  すくむ体の中で目だけが本能的に危険を捉えようと動き、それは上空の一点で止まる。  そこにはテーブルに磔にされた男がいて、やけに研ぎ澄まされた視界の中で男の口が微かに動いたのが見えた。  それは歪な笑みとなって男の顔に張り付き、そのまま男が動かなくなると、男を中心に見えない何かが急速に広がっていく。 「これは……、零爆⁉」  B9の驚く声も一瞬で掻き消して、それは声なき断末魔のように空間全体を満たし震わせ、すべての存在を根底から揺さぶった。  目の前でB9が糸の切れた人形のように崩れ落ち、同時に周囲に散らばった人形の残骸が蜃気楼のように消えていく。  俺を地面に押さえつけていた力も消失し、急速に体と頭が覚醒していくが、同時に総毛立つほどの恐怖に襲われた俺は、心臓を掴まれたように息をすることもままならない。  痛いほどの寒気に体は芯から震え、周囲の空間ごと自分が分解されるような錯覚に襲われる。  自分という存在があやふやになりそうで、 「ハクセン!」  と思わず俺は、すがりつくように刻器の名を叫んだ。  するとハクセンの硬い感触を中心に、自分の感覚が再び明確になっていく。 (俺は……クウロ=ルワーノ)  言い聞かせるように俺は自分の名を思い浮かべ、四肢の感触を確かめながら刻器を支えに立ち上がる。  周囲を見ればチルトとシンは倒れたままで、しかし、蜃気楼のようにどこか存在が希薄に感じられた。 (早く二人を……)  そう思って走り出そうとすれば足下がふらつき、俺は刻器を地面に突き立てなんとか耐えるが、それでも足下の揺れは大きくなる。  壁や天井からは砂や石が崩れ落ち、そこで俺は洞窟全体が揺れているのだと気がついた。  ふと男を見るが、彼は凍ったように表情一つ変わっていない。  ただの地震かと思った直後、現相炉が自己主張するかのように一際大きな鼓動を響かせた。  レクトを呑み込んだ巨大な球体は一瞬膨らんだように震えると、上部にある開口部を閉じていた蓋を勢いよく吹き飛ばす。  そして再び開いた口から、透明な陽炎にも似た何かが勢いよく溢れだした。