【最終章】  蒸気のように現相炉の開口部から溢れ出た何かは高く吹き上がり、天井へぶつかると四方八方へと巨人の手のように広がった。  その表面は薄い霧のようで向こう側が透けて見えるが、奥にあるそれは歪み、幻のように景色を次々と変えていく。  まるで夢のように曖昧な色を内包したそれは天井に沿って広がりながら、揺らめく表面からカメレオンの舌のように幾筋も垂れ落ち、その中の一つが地面に横たわるチルトへ向かって伸びていく。 「くそっ!」  俺は突き立てていたハクセンを地面から引き抜き、未だ全身を覆うおぼろげな感覚を振り払うように走り出した。 「チルト!」  彼女の頭上、数秒で接触する位置までそれは迫り、俺の声にもチルトは目を覚まさない。  あれに触れたらどうなるのか。  俺の脳裏に現相炉へと消えたレクトの姿が蘇り、俺は走りながら男がいた場所へと何気なく視線を向けた。 「――――⁉」  そこに居た男は磔にされたテーブルごと現相炉から溢れたものに呑み込まれ、まるでそれと同化するかのように体は透けて幽霊のようになっていた。  男は周囲と同じように次第に歪み、急速に影が薄くなっていく。そして大きく歪んだかと思うと、シャボン玉が弾けるように輪郭を完全に失った。  中身を失ったコートや衣服は波間を漂うように揺れていたが、それも形を失い消えていく。 「…………」  目の前で起きたことに思考が追いつかないが、その間も空間を侵食するように広がるそれは、チルトへとなお落ち続けていく。  チルトまでは数歩の距離で、俺は左下段に構えたハクセンを強く握り直し、言葉一閃右上方へ切り上げた。 「閉紋:千里刃!」  剣線はチルトの上を覆うように横切り、そのまま弧を描いて流れていく。  一周して完成した円は、俺とチルトだけでなくシンやB9さえも覆う大きな面となる。 《始錠:閉紋→来相転移》  切断の未来が過去へと変わり、 《構過:来相@事象範囲》  落下という事象はすべて切断される。 《顕現:事象∽千里刃》  落ちてきたそれは、俺たちの頭上すれすれで垂直から水平へと落下方向を変え、安全を確認した俺はすぐさまチルトのそばに行って肩を揺する。 「チルト! 目を覚ませ!」 「……ん、んー? だ、だめだよぉ……」  目を閉じたまま彼女の猫耳がいやいやと左右に揺れる。  俺は耳の先端をつまんで引っ張り上げ、 「起きろ! チルト! ダメじゃない!」  そう怒鳴ったが、チルトは眉間に皺を寄せただけで、獣耳を激しく動かして俺の指を振りほどくと、すぐさま耳をピタッと閉じて体を丸める。 「……そ、そこはだめだってばぁ……」  そして、やけに艶めかしい声で寝言を続けた。 「……しかたない」  俺は咳払いを一つすると彼女のお尻……、ではなく腰の少し下から生えている茶トラ柄の尻尾へと手を伸ばす。  彼女の呼吸に合わせて左右に小さく動く尻尾の先端に狙いをつけると、俺は思い切って両手でそれを捕まえた。 「うにゃ⁉」  チルトが驚きの声を上げて背筋がピンと伸びるが、俺は間髪入れず片手で先端を握りしめたまま、もう一方の手を一気に根元へと滑らせる。  みるみるうちに逆撫でた尻尾だけでなく彼女の全身の毛という毛が逆立ち、肌は瞬く間に鳥肌へと変わっていく。  そして彼女の目が勢いよく大きく見開かれ、その視線はピンと一直線に伸びた尻尾を辿って俺の顔へ、そして再び尻尾をたどって自分のお尻へと向けられる。  チルトの顔は一瞬で耳まで赤くなり、俯くとわなわなと肩を震わせながらおもむろに拳を握りしめた。  全身から吹き出る冷や汗を自覚しながら、俺は取り敢えず彼女に話しかける。 「ほら、今は緊急事態で、チルトを起こすにはこれしかなかったというか、だから、まずは、そう! 話し合おう! な?」 「うぅ、うにゃあああああああああああ!」  問答無用でチルトは叫ぶと、牙のごとく研ぎ澄まされた拳を俺の鳩尾に叩き込んだ。 「どこ触ってんのよ! この変態ッ!」  息を荒げて罵る彼女の言葉を、俺は吹き飛びながら遠くに聞いていた。        ◆ 「ぐえっ!」  チルトに吹き飛ばされて地面に落ちた瞬間に聞いたのは、そんな潰れたカエルの鳴き声にも似たシンの声だった。  とっさにチルトの拳をハクセンで受けたものの、すさまじい衝撃にハクセンを握る手が痺れている。  上半身を起こせば、俺の下でうつぶせになったシンが苦しげに呻きながら、腕を伸ばして手のひらで何かを揉むような仕草をしつつ、 「お嬢さん……、ここは、俺に任せて早く逃げ……」  と、何やら意味不明な言葉を漏らしている。  シンから退いて周囲を見れば、遠くではチルトが俺を睨みながらまだ何やらわめいていて、彼女から視線を外して近くを見れば、大型コンソールの近くには倒れたままのB9がいた。  まったく動く気配のない彼女に近づこうとすると突然足首を掴まれ、その手は足首から上へと、ズボン越しに俺のふくらはぎを撫で回し始める。 「うーん、俺はパンツルックもいいけど、ミニスカニーソのほうが……」  背筋を走る悪寒に俺は足を振り上げ手を払うと、そのままそいつの後頭部を踏みつけた。 「ぐふっ!」  顔面を地面にめり込ませて静かになったシンを見下ろしながら、俺は額に浮かんだ嫌な汗を拭って一息つくと、足をさらに押し込みながらこう言った。 「おい、シン。さっさと起きろ」        ◆ 「で、これはどういうことだ?」  シンが赤くなった額を抑えながら周囲を見回し訊いてくる。  頭上は蠢く虹色の雲にも似たもので一面覆われ、俺が放った切断の力によってガラス一枚隔てたように下の空間は無事だった。しかし、それも洞窟全体を覆うほどではない。 「ナルはどこ? これは一体、何?」  続いて、駆け寄ってきたチルトも周りを気にしながら同じように訊いてくる。  俺はチルトが口にした名前に、靄の奥で影のように透ける球体を見上げながら現実を口にした。 「レクトは……、あの中だ」 「あの中って……」  俺の視線を追って、チルトもレクトを呑み込んだ現相炉を見上げる。そして、尻尾をぎゅっと抱きしめると黙り込んだ。  球体からは相変わらず鼓動のような震動が一定のリズムで響き、洞窟全体にその存在を示している。 「助けないとな」  重い空気を破るようにそう言ったのはシンだった。 「何か策でもあるのか?」  頭上を漂う不気味な靄を気にしつつ俺はそう聞き返し、チルトは黙って彼を見つめる。  二人の視線にシンは目を閉じて腕を組むと、 「わからん」  そう短く即答した。 「あんたねぇ!」  爪を立てて詰め寄るチルトに、シンは慌てて視線をさ迷わせながらも必死に考え、 「あ、でも、はっきりしてることが一つだけある」  何かを思いついたように人差し指を立てるとチルトの肩に手を置いた。 「な、何よ?」  訝しげに聞き返すチルトに、シンは地面で倒れたままのB9、それから現相炉へと視線を向けて、 「俺は、どんな女性でも見捨てることはできない!」  胸を張って力強くそう言った。 「まったく、おまえってやつは……」  俺は苦笑を浮かべ、チルトは肩を落として大きくため息をつく。  それでもシンは「だろ?」と自信に満ちた笑顔を俺たちに向け、そんなシンに俺とチルトも「そうだな」「そうだね」と答えると、互いに顔を見合わせ頷き合った。  すると突然、俺の懐から携帯端末の呼び出し音が聞こえてきた。        ◆ 「師匠?」  俺は端末に表示された名前を不審に思いながらも通信を繋いだ。 《どうだ? 刻器の具合は》  開口一番に言われたそんなたわいのない言葉に、俺は苛立ちを覚えつつ手にした白い刻器を見る。 「どうだと言われても、普通に使えてますけど……」 《……普通か。そうか……》  そう言って、師匠は何か考えるように黙り込む。 「それより師匠。今は、それどころじゃないんですよ!」  俺は周囲を気にしながら焦りを隠さず言った。  ハクセンによる円の効果範囲の外へと得体の知れない靄は溢れ始め、それは周囲から迫るように再び俺たちへと近づきつつある。 《ああ、そうか。おまえ、今困ってたんだったな》  すっかり忘れていた様子で師匠は言うと、さらに続けてこう訊いてきた。 《で、現相炉は無事なのか?》 「だから、その現相炉から何か漏れ出して大変なんですよ!」  と、そこで俺は引っかかるものを感じて師匠の言葉を思い返す。 「……師匠、今、現相炉って言いました?」 《言ったのはおまえだろ?》  とぼけた調子で師匠は答える。 「な・ん・で、現相炉のこと知ってるんですか⁉」  問いただす俺に師匠は呆れた様子で、 《わしのことを誰だと思っとる。それに、今訊きたいことはそれじゃないだろ?》  そう冷静に聞き返してきた。  俺は問い詰めたい気持ちをぐっと堪えて、仕方なく話を戻すことにする。 「そうですね。じゃあ、現相炉ってなんなんですか?」 《今度は、いきなり核心か。せっかちな奴だな》  苦笑交じりに言ってくる師匠に、俺は沈黙で先を促した。 《……現相炉は現相を分解する装置らしい》 「現相を分解……」  俺はそれを聞いてB9の言葉を思い出す。  現相炉の研究成果、その応用である開紋を使用した術。 「連鎖崩壊の危険を冒してまで、何のために……」 《それは、人工的な来相をつくり出すためみたいだな》 「来相って、あの来相をですか?」 《ほかにどの来相がある?》 「でも来相なんて無限にあるし、それに認識できないんじゃ……」  俺は頭上で渦巻く七色の暗雲を見上げて言った。  未来という確定前の事象は理解できても認識することはできない。 《視認できるなら、分解した可変素子のすべてが量子状態になっていないということだろう。人間の魂すなわち精零(スフィア)は構造上、そう簡単には可変素子へは分解できんからな》 「それは……」  つまり現相状態の可変素子が残っているということで、 《だが、それでも可変素子が通常の密度を超えて存在している以上、精震に対する世界の過剰反応――来相汚染は避けられないだろう》  師匠の言葉に、俺は偽りの可能性を吐き出す現相炉と、そこに捕らわれたレクトへ想いを馳せる。  しかし、そこに磔のまま泡のように消えた男の姿が重なり、俺はかぶりを振ってその想像を否定した。 (いや、まだ間に合うはずだ) 「ねえ、クウロ!」  現相炉を見上げて歯噛みする俺にチルトが呼びかける。  彼女を見れば顔面蒼白で、その視線は大型コンソールの裏、津波のように押し寄せる来相へと向けられていた。 「クウロ、チーちゃん、急いで逃げて!」  そう言うシンの声は既に遠くで、その腕にはいつの間に抱えたのか、B9がお姫様だっこされている。 「ちょっと、シン⁉」  チルトは唖然とするが迫る来相に慌てて走り出し、俺も師匠と話を続けながらその後を追う。 「師匠! 現相炉に入れられた人間を助ける方法を教えてください!」 《肉体が分解されていなければ可能だが、少しでも分解が始まっていれば不可能だ》 「俺は助ける方法を聞いてるんです!」 《一度に大量の来相にさらされれば人間は数分で崩壊を始める。連鎖崩壊が始まってからでは現相炉から出しても助からん》 「でも……」  レクトが現相炉に落ちてから、少なくとも五分は経過してしまっている。  その現実に諦めのイメージが頭をよぎり、すぐに不断症の頭痛と目眩がやってくる。  しかし、そんな症状さえも今の俺にはありがたい。  前を行くチルトとシン。俺はレクトに対して二人のような思い入れはないが……。 (ここで諦めるのは便利屋の俺らしくないよな)  自嘲めいた思いとともに速度を上げて、二人との距離を詰めていく。  すると、師匠が俺に言った。 《器があれば、精零だけでもサルベージすることは可能かもしれんが……》  二人に並びながら、俺はその可能性を噛み締めるように口にする。 「……器があれば、助けられるんですね?」 《あればって……。おまえ、器がなんだかわかってるのか?》 「何なんですか?」  急く気持ちのまま師匠に訊けば、 《生きた人間の体だ》  淡々とした冷水のようなその言葉に、俺の足取りが重くなった。そして、二人との距離が再び離れていく。 「クウロ、どうした?」  すぐに気づいたシンが足を止め、チルトとともに戻ってくる。 「…………」  俺はそんな二人を黙って見つめ、その視線をシンに抱えられたB9へと向ける。 「ねぇ、クウロ?」  チルトの声に、しかし俺は彼女ではなく隣にいるシンのほうを向いて口を開いた。 「レクトを助けるには……器が、必要だ」 「器って?」  チルトが横で首をかしげるが、シンの眼差しは真っ直ぐで、その視線から逃れるように俯けば、そこにはレクトとよく似た顔がある。  それは静かに目を閉じて、力なく四肢をぶら下げている。 「彼女がどうかしたのか?」 「彼女は……生きて、いるのか?」  俺の口から出たのは、そんな言葉だった。 「わからない。彼女はパペットだからな。ただ機能を停止しただけかもしれない」  B9を抱えたまま、シンは器用に彼女の腕をとって手首を見せる。  白衣の長袖からのぞく肌は色白で、しかし、そこにある小さな丸い凹みを押し込むとコードの端部が飛び出すように顔を出した。  開いた黒い穴の奥は空洞になっていて、B9の中身を思わせる。  パペットは生体人形で、その魂は疑似精零によってできている。 (偽りの未来に偽りの魂か)  俺は靄がかった現相炉を見上げながら、この擬似的な未来を内包した黒い球体も一つの擬似精零なのかもしれないと思った。 「おそらく疑似精零が自閉モードに入っているだけだと思うが」  シンの言葉をどこか遠くで聞きながら、俺は直感的にうまくいくような気がして思わず言葉を漏らす。 「レクトを、助けられるかもしれない」 「本当に⁉」  チルトがすぐに俺の腕を掴んで見上げてくる。  俺はその勢いに気圧されながら、自分が言った言葉の意味にハッとして戸惑った。  擬似精零は人間がつくったと言うだけで、人間と同じように自我も感情も持っている。 「ああ……しかし、それには……」  視線を逸らして口籠もると、俺の腕を掴むチルトの手に力が籠もる。  彼女のすがりつくような視線を感じるが、言葉が喉につかえて出てこない。  そんな俺にB9をそっと地面に横たえながら、シンが俺を見上げて言う。 「ジルさんと話をさせてくれ」  その声色は静かで、俺に向けられた瞳は大丈夫だと言うように揺らがない。  俺は友に頷くと、まだ通信が生きていることを確認して端末を手渡した。  シンは端末越しに軽く挨拶を済ませ、師匠とレクトの救出方法について話し始める。  その口調は淡々としていて無駄がなく、いつもの浮ついた雰囲気はみじんもない。  周囲から来相の波が迫る中、俺とチルトはそんなシンの様子を黙って見ていた。  シンは時折難しい顔をしながらも師匠の話に頷き、一つ一つ確認しながら視線を現相炉からB9へ、そして再び俺へと向ける。 「はい、わかりました。やってみます」  そして師匠に礼を言うと、シンは俺に端末を返し立ち上がり、 「レクトを助けよう」  力強くそう言って俺とチルトを見た。  チルトは「うん!」と拳を握り大きく頷き、俺は……それでも言葉が出なかった。  パペットであっても、その意志を一方的に断っていいはずがない。 「まあ、あれだ……、女性の扱いは俺に任せろ」  俯く俺の肩を叩いてシンは笑顔を浮かべ、すぐに表情を引き締めると、 「俺は白衣のお嬢さんを連れて、あそこへ行く」  そう言って現相炉の下を指さした。  来相の波に呑み込まれて溶けたように変形した大型コンソールの奥、現相炉のそばに人一人が入れるくらいの縦長の白いカプセル状のタンクがおぼろげに見える。 「だからクウロ、頼みがある。おまえの力であそこまでの道を確保してくれ」 「……わかった」  俺は手にしたハクセンを握りしめ、絞り出すようにそう答えた。  今の俺に、友の意志まで断るようなことはできない。 「もしこの状況が地上まで拡大したら、俺たちが青春を謳歌するはずの学園まで混沌に呑まれかねないからな。しっかり頼むぜ、相棒!」  そう言うとシンは俺の背中を強く叩き、俺は思わずのけ反りながらもハクセンを一振りして気持ちを切り替える。 「ああ。おまえの道は俺が切り開いてやる」 「ねえねえ! 私にできることはないの?」  俺たちの間に割り込むようにして、チルトが構って欲しい子猫のようにシンと俺を見上げて言ってくる。  そんな彼女に、シンはズボンのポケットから符の分厚い束を取り出すと、 「チーちゃんは、こいつでクウロのサポートを頼む」  そう言ってチルトに束を握らせる。 「これは小さな突風を起こす符で、あの来相の波が近くに来たら、取り敢えずこの符で相転移させてやれば時間稼ぎにはなるはずだ。それから、これもあげる」  今度は懐から小さな鈴の着いた赤いリボンを取り出し、手のひらに載せてチルトに見せる。 「これって、チョーカー?」 「お守りだよ。くれぐれも無茶はしないでね?」  まじまじと見るチルトの頭を、シンはぽんぽんと軽く叩いて言った。 「わ、わかってるわよ!」  ひったくるようにチョーカーを受け取って、チルトは優しい眼差しを向けるシンから顔を背けると仕方なさそうにそれを首に巻いた。  シンはそれを確かめると満足そうに頷き、しゃがんでB9を背負うと立ち上がる。 「じゃあ、行こうか」  シンの掛け声に俺たちは互いに視線を合わせ、そして行動を開始した。        ◆  上段に構えた白い刻器の向こうに、先を行くシンの背中がある。  俺はハクセンを握る手に力を込めて、願うように語りかける。 (力を貸してくれ)  しかし、俺の刻器は何も答えない。  ハクセン。刃の無いこいつにある断ち切る力。  そして、俺に欠けている俺にはできないこと。  最初に触れた瞬間に感じた、まるでパズルのピースがはまるような感覚。  それらを信じて、俺はイメージを開始する。  友の前に立ちはだかる可能性の固まり、その存在を意識の中で捉え、ハクセンの持つ力の意味とともに鍵となるワードを口にする。 「閉紋:千、里、刃!」  力が捉えるのは、俺と現相炉のそばにあるタンクとを結ぶ直線。  友が示してくれた俺たちの進む道。  真上に掲げたハクセンから立ち上がる剣線は上空で立ち込める来相近くまで伸び、俺はそれを前へと向かって叩きつけるように振り下ろす。 《始錠:閉紋→来相転移》  切断の未来は過去へと変わり、 《構過:来相@事象範囲》  あらゆる分岐を持った未来が一つを残してすべて断たれ、希望の道が確定する。 《顕現:事象∽千里刃》  シンの行く手を阻む来相の波が割れて、ぼやけていたタンクの輪郭がはっきり見えた。 「行けっ!」  俺の声に、シンは加速で応える。 「クウロ! 上!」  突然叫んだチルトの声に上を見れば、その部分だけ来相の雲が再び地面へ向かって垂れ始めている。 「……来相による影響か?」  それは穴を広げるように次第に大きな流れとなって、落下という事象を切断したことそのものを無かったことにしていく。  それを見て、チルトが符を指に挟んでワードを口にする。 「閉紋:トリック・ウィンド!」  符は指先で垂直に立ったまま細かく振動を始め、それを彼女は落ちてくる来相へと放った。  風をまとった紙片は来相の中へと突き刺さり、その瞬間に爆発するような音ともに暴風を生み出す。 「うおっ⁉」 「何よこれ⁉」  砂埃を巻き上げ唸る風に、俺はハクセンを地面に突き立てしがみつき、チルトは四つん這いで地面に爪を立てて堪える。  吹き荒れる風に制服は激しくはためき、落ちてきていた来相は上空へと昇る竜巻へ変わっていく。  それは未だに上空を蠢く来相へと呑み込まれ、そのあとにはそよ風だけが残された。 「おおおおお! ビンゴ!」  突然、シンの声が風の音を突き破るように前から聞こえてきて、現相炉のほうへと目を向ければ、タンクの前にあるテーブルにB9を横たえながら、シンがこっちをガン見している。  しかし、よく見るとその視線は俺ではなく地面のほう、四つん這いで四肢を突っ張ったままのチルトへと向けられていた。  シンの声に振り向いたチルトも、彼の視線が自分に向けられていることに気付き、そこで自分の下半身が大変なことになっていることに気がついた。  彼女のスカートは全開で、その中に普段は隠れているはずの赤いボーダー柄の布地が柔らかそうな曲線を描いて丸出しになっている。  チルトの顔は、みるみるうちに下着と同じように真っ赤に染まり、 「なぁああああ⁉ ちょっと⁉ 何、見てるのよッ!」  素早く飛び跳ねて立ち上がると、スカート越しにお尻を両手で押さえながら、牙を剥き出しにしてシンと俺を睨みつけた。  なんで俺までと不慮の事故に遭遇した気分になりながらも慌ててチルトから視線を外し、俺はハクセンをシンに向けると大声で言った。 「こんなのはいいから、さっさと作業を進めろ!」 「こんなのって、どういうこと⁉」  耳をピンと立てて、チルトが信じられないという表情で俺に迫ってくる。  しかし、そんな彼女の後ろでは空中のあちこちから来相が落ち始めていた。 「とにかく行くぞ!」  そう言って、俺はシンの元へと走り出す。 「ちょっとクウロ、待ちなさいよ!」  周囲へ符を投げながらチルトも俺の後に続くが、爆発音が響いて突風が吹くたびに、 「ひゃうっ⁉」  と、可愛らしい悲鳴を上げながらめくれそうになるスカートを押さえる。  そして、俺の隣に並びながら符の束を睨みつけて言った。 「もうっ! ほかの符はなかったの⁉」 「ほら、上からまた来るぞ!」  既に俺のつくった切断の天井は穴だらけで、上からは来相の雨、後ろからは来相の波が押し寄せてくる。 「それならまとめて、閉紋:トリック・ウィンドッ!!」  チルトは三枚まとめて符を掲げ、後ろへ連続で飛ばしていく。そして、全速力で飛び出した。 「おっ先にぃいいいいいい!」 「はぁ⁉ おま……うおぉおおお⁉」  一瞬で小さくなったチルトの背中に文句を言うよりも早く、俺の背中を空気の固まりが殴りつけ体が弓なりに曲がって前へ吹き飛ぶ。  それで現相炉までは十数歩の距離まで一気に近づき、俺はバネのように伸びた体を力任せに戻しながら、浮いた足先をなんとか地面に着ける。しかし、そこを追い風に押されてつんのめった。  手を振り回しなんとかバランスを取ろうとする俺の脳裏に、スローモーションのように地面へ向かって倒れていく自分の姿がはっきりと浮かぶ。  その瞬間、俺はそんな数秒先の自分を薙ぎ払うようにハクセンを振るった。 「閉紋:千里刃!」  幻の自分を横なぎに剣線が一刀両断し、倒れていく未来の自分を切断する。 《始錠:閉紋→来相転移》  切断の未来は過去へと変わり、 《構過:来相@事象範囲》  倒れる未来が切断されて別の可能性が確定する。 《顕現:事象∽千里刃》  それは否定が生み出す、俺が転ばない未来。  体勢を崩し、これ以上踏み込めないはずの地面を踏んで、俺は体を前へと跳ばす。  そして横なぎの勢いのまま体を捻って刻器を天井へ、地面すれすれからさらに一閃。 「閉紋:千里刃!」  それは真上に捉えた現相炉の曲面を薙ぐような剣線を描き、現相炉と俺たちを囲む新たな障壁となって迫る濁流のような来相を阻んだ。  壁を昇って後ろへ逆流していく来相を確認し、俺は捻りきって再び現相炉へと向いた体を前へと跳ばす。  作業中のシンと彼に怒鳴り散らしているチルト、二人のもとへと。        ◆ 「よぉ、大丈夫だったか?」  現相炉下のタンクに辿り着くと、シンがテーブルに寝かせたB9の手首からコードを引き出しつつ、こっちを見ずにそう言った。 「だから、大丈夫じゃないわよ! もう最悪ッ!」 「まぁまぁ、チーちゃんも助かったよ。ありがとう」  くってかかるチルトの頭をくしゃくしゃと片手で撫でながら、シンはコードをテーブルに備え付けのコンソールへ繋いでキー操作を始める。 「む、むぅうう」  シンの邪魔をするわけにもいかず、チルトは唇を尖らせながらも黙り込んだ。 「シン、どうだ?」 「ジルさんから即席のマニュアルをもらったから大体の手順はわかるが……、まあ、できる限りやってみるさ」  そう言ってモニターを確認すると、シンが今度はB9の頭を抱くように持ち上げる。  ふと見上げれば、せり出す巨大な球体下部が屋根になって上部から吹き上がる来相が直接落ちてくることはなさそうだが、来相が噴き出し続ける限り、ハクセンや符をどんなに使っても限界はある。 「確か、ここにアクセス端子があったはず」  シンへと視線を戻せば、腰にある自分の端末から引き出したコードをB9の首筋の裏へと差し込み、次にその小さな顎を持ち上げて自分の顔を近づける。 「ちょっと⁉ シン⁉」  驚くチルトを無視して、シンはB9の小さな唇を親指と中指で開き、その口内を間近で覗きながら中指を口の中へと進めていく。 「わ、わわわわ……」  チルトは赤らめた顔を両手で覆いつつ、しかし、その指の隙間からはしっかりと好奇の視線を覗かせていた。 「リセットスイッチは、たしか奥歯の裏側に……これか?」  気にせず作業を続けるシンは、そう言って中指を奥のほうへと進め、 《自閉モードから復旧中。起動シークエンスを実行しています》  頭部から直接響くB9の声を確認すると、ゆっくり指を引き抜いた。 「よし、取り敢えず擬似精零は無事みたいだな」  シンが手元の端末を見ながら小さく頷き、口から抜いた指をしげしげと見ていると、 《……ナ……ナル……ナル、ミ……》  唐突に震えるような男の声が頭に響いて、俺たちは周囲を見回した。 「な、何⁉」  チルトの尻尾が逆立ち、耳はピンと立って周囲を探るように激しく動く。 《ナル、ナルミ、ナル、ナルミ、ナルミ、ナル、ナナル、ナナ……》  それは洞窟全体から聞こえてくる。 「……ナル?」  チルトが訝しむようにレクトの名を口にするが、男の声は名前のような音から次第に意味を失って、 《ル、ルルル、ルルゥグルルル、グルル、ルゥオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!》  咆哮となって空気を震わせた。  ハクセンによる切断の壁の向こう、周囲で蠢き漂っていただけの来相が一つの形を成していく。 「何よ、あれ……」  耳を両手で塞ぎ顔をしかめていたチルトの目の前で、虹色の雲のように曖昧だった来相の表面が次々と黒く滑らかなものとなっていく。  そして、それは一つの黒い塊になった。  現相炉と同等かそれ以上に巨大な陰のような存在に、俺たちは言葉を無くす。  確かな輪郭を持ったその表面には、大小様々な丸いクレーターのような凹みが無数にあって、口や目のようにも見えるくぼみからは「オォオオ」と震えるノイズにも似た呻き声が聞こえてくる。  体にまとわりつくような声に寒気を感じながら、俺は黒い怪物を見たままシンに言った。 「できるだけ急いだほうがよさそうだな」 「ああ。眠り姫にはさっさと起きてもらうことにしよう」  シンは素早くB9から伸びた二本のコードを外し、テーブルに彼女をバンドで固定するとコンソールを操作してタンク上部を開く。  するとテーブルが浮かんで移動を始め、口を開けたタンク上部まで来るとテーブルは水平から垂直へと向きを変える。 《オオオオオオオオオ!!!》  再び黒い怪物が叫ぶ中、B9はテーブルごとタンクへ入っていく。  その間、怪物は羽ばたくように全身を広げ、巨体をふらつかせながらもゆっくり後ろへ反り返っていく。そして、その中心が大きく波打ったかと思うと、俺たちのほうへと覆い被さるように迫りながら、その表面から無数の黒い手を伸ばしてきた。 「いにゃあああああっ⁉」  チルトは悲鳴を上げてシンにしがみつき、俺は二人をかばうように前へ出てハクセンを構える。  俺たちへと真っ直ぐ伸びてきた触手群は、しかし途中で見えない切断の壁に阻まれインクをぶちまけたように広がった。そして、時間を巻き戻すように再び巨体へ戻っていくと一度震えるようなぎこちない動きを見せ、今度はその巨体すべてを壁へとぶつけてくる。  目の前が完全な闇に覆われ、しかし、そのとき俺は上から光が差し込んでいることに気がついた。  見上げれば、現相炉上部に来相の七色に揺らめく色が見える。 (まずいっ! 来相でハクセンの効果が分解されていたら……)  俺の焦りを見透かしたように、黒い塊はハクセンの壁を乗り越えるように上へと伸びる。  それを追ってよく見れば、来相はやはりハクセンの障壁を越えて黒い怪物のほうへと流れていたが、怪物はその来相に触れると怯えたように距離をとり、それ以上こちらに来ることはなかった。 「クウロ、ちょっといいか?」  ほっとしたのも束の間、俺の耳にシンの緊張した声が届く。  シンのほうを見ればタンクの蓋は既に閉じられ、そこに開いた丸い窓からは目を閉じたB9の顔が見える。 「どうした?」 「現相炉内に一つ精零を見つけた。おそらくこれがナルさんだと思う」  コンソールと自分の端末を交互に見ながら、シンはそう言った。 「シン、本当⁉」 「助けられるか?」  チルトと俺の言葉にシンは少し黙り、コンソールの画面を見たまま悔しそうに答える。 「だが、来相が漏れ出ているせいで内部の流れがうまく制御できない」 「「……?」」  意味が理解できず疑問符を浮かべる俺たちに、シンは言葉を続ける。 「現相炉は内部表面を精震のフィールドで覆って、精震干渉の強弱で現相の分解と制御を行ってるんだ。でも、それは内部が安定状態であることを想定してる。今の来相が不安定に流出し続ける状態だと、幾ら制御プログラムを修正しても精零がサルベージできない」 「つまり、お風呂の栓を抜いたら浮かべてたアヒルのおもちゃが渦に吸い込まれて、みたいな?」 「チーちゃん、えーっとね……」  真剣な顔で場違いな喩えを言うチルトに、シンが思わず苦笑を浮かべる。 「とにかく来相の流出を止めればいいんだな」  緩みそうな空気に俺はそう言って、シンはそれに真面目な顔になると頷いた。 「ああ、完全でなくても今より流出の勢いが弱まればいい。何か策はあるのか?」 「とにかく、やってみるさ」  現相炉上部で吹き出し、わだかまる偽りの可能性。その先にあるものを俺は見る。  それは洞窟の天井に突き刺さった、現相炉の開口部を閉じていた円形の扉。  板状のそれは俺の体と同じくらいの大きさで、半分近くが天井に埋まっていたが、露出した部分は溢れ出す来相に晒されながらも未だに形を保っている。  しかし、扉板の近くでは黒い陰が触手の群れを伸ばして様子を窺っていた。  今、来相の流出を止めたらどうなるのか……。  俺は唾を呑み込むと手にしたハクセンを握り直して、腕組みをしながら考え込んでいたチルトに言う。 「チルト。できるだけ符を使ってあそこの来相を消してくれるか?」 「え? あそこって……」  俺が指さしたほうを見た途端に彼女は不安な表情を浮かべるが、そんな彼女の肩を叩くとその目を真っ直ぐに見て大きく一つ頷く。そして彼女の返事を待たずにシンへと告げる。 「じゃあ、ちょっくら行ってくるから。シンはサルベージの準備を続けてくれ」 「ああ、頼んだぞ」  シンは作業を続けながらそう短く答え、俺はそれに満足して上を見る。  もう足場になる人形はなく、チルトの符で突風を起こしても、さすがに俺を吹き上げるほどの力はない。  それなら、どうやってあそこへ行くのか。俺の道を阻む障害は何か。  ハクセンを地面に突き立て目を閉じると、俺は静かにワードを口にした。 「閉紋:千里刃」  足下に広がる剣線をイメージし、自分と地面に働く力を切断する。 《始錠:閉紋→来相転移》  切断の未来を過去へと確定させ、 《構過:来相@事象範囲》  縛りつけていた未来を過去のものとする。 《顕現:事象∽千里刃》  そして俺は、ほんの少しだけ軽く地面を蹴った。  体が風船のようにゆっくりと地面から離れ、膝くらいの高さでまでくると落ちて、羽のようにふわりと地面に着地する。 「よし。じゃあ、チルト、俺が跳んだら続けて援護を頼む」 「わ、わかったわ」  そう言いながらチルトは、なぜか羨ましそうに俺を見ていたが、俺は気にせず球体に沿って天井へ向かうルートに狙いを定める。そして、今度は思い切り地面を蹴った。  ジャンプの勢いのまま俺は上昇を続け、 「クウロ、後でその術教えなさいよ! 閉紋:トリック・ウィンド!」  とチルトの余計なお願いとともに、風をまとった二枚の符が俺を抜かして飛んでいく。  それは開口部付近の来相に触れると爆発音を響かせ、爆風で黒い怪物を押し返した。  まだ現相炉の半分くらいの高さにいた俺も風に少し押されるが、向かい風が止むと今度は暴風の中心へと逆流する風に乗って加速する。 「いいぞ。そのまま続けて!」  チルトへと声をかけ、俺は球体表面を足がかりに扉へと最短ルートを進んでいく。  黒い巨体は爆発に驚いたのか動きが鈍いだけなのか、押し返されたまま触手だけを伸ばし、再び漏れ出た来相に行く手を阻まれやっては来ない。  そして俺が開口部の近く、来相の雲へと突入する直前、 「どんどん行くよ! 閉紋:トリック・ウィンド!」  再びチルトの援護がやって来た。  風をまとった符が、今度は怪物と俺の間に一、二、三、四、五、六、七、八枚、横並びで展開する。 「おいっ⁉」  多すぎると抗議する間もなく、符は端から順に八連続の爆風を生んだ。  横殴りの風に押されれば、その先には口を開けた現相炉が待っている。  俺は爆風を正面に、素早く刻器を逆手に持ち替え背後を突いた。 「閉紋:千里刃!」  それは背後に直進する動きを切断、代わりに斜め上向きの抵抗を生む。  上昇気流となった風に乗り、俺はそのまま天井へ到達するとハクセンを突き立て、そこを起点に体の上下を入れ替え天井へと着地する。  ちょうど目の前には目的の扉板がある。  俺は天井を蹴って風から身を隠すように扉の裏へと回り込み、そこで一息つくと現相炉へと目を向けた。  漏れ出た来相はほとんど風になって今は無い。  術のせいでフワフワと体が安定しないが、俺は素早くハクセンを扉板の中心、ちょうど天井に突き刺さっている隙間へとワードとともに突き立てる。 「閉紋:千里刃!」  扉板の表面と刻器の先端に意識を集中し、切断の連続を開始。 《始錠:閉紋→来相転移》  切断の未来を過去へと確定していく。 《構過:来相@事象範囲》  そして、手のひらより厚い扉へと無刃の剣を突き通す。 《顕現:事象∽千里刃》  ハクセンが半ばまで貫通したところで、俺は天井に着いた足を踏ん張り刻器を下へと振り抜いた。 「うぉおおおおおおおおおおおおッ!!」  すると扉は思ったよりあっさり抜けて、そのまま重力に引かれて落ちそうになる。 「おっ⁉ おおおおおおお?」  持っていかれそうになる両腕に力を込めて、俺は下で口を開ける現相炉へと方向を修正すると、そのまま天井を蹴って落下した。  吹き荒れていた風は既に消え、真っ黒な球体上部にぽっかりと空いた丸い開口部から内部が見える。  それは、まるで星一つない夜空に浮かぶ七色の朧月のようだった。  しかしそれも、すぐに吹き上がる来相に歪んで崩れる。  俺は扉板へ足を着けてサーフボードのようにすると、開口部へと落下を続けた。  直後、板越しに下からふわりとした衝撃が来たかと思うと、来相が扉板を回り込んで俺の体を包み込む。  そして、まとわりつく七色の霧の中、白い光が俺の視界を奪っていった。        ◆ (ここは、どこだ?)  真っ白な世界で息苦しさを感じながら、俺は周囲を見回した。  どこにも影はなく、自分の体もあるような気はするが判然としない。  輪郭を失ったような感覚に、意識も薄く遠くへ広がっていくように思えた。 (……クウロ……) (……誰だ?) (……クウロ=ルワーノ……)  俺の名を呼ぶ声に、散りかけた意識が輪郭を取り戻す。  その声は正面から聞こえてくるようでありながら、どこに焦点を合わせればいいのかもわらからず、俺は白一色で塗りつぶされた視界の中で目を凝らす。  頭はやけに重く目がかすむが、それでも眺めていると少し離れた場所に並んだ二つの白い人影を見つけた。  人影は、二人とも足首まである長い白髪を背後に垂らし、細身の体は丸みを帯びた女性を思わせるシルエットをしている。 (……助けて、ください……) (……助けて……)  左右から同じ声でそれは言う。 (……夢は、もう消えてしまった……) (……現実は、そこにあったのに……)  それは冷たく悲しい声で、 (……なのに、私は……) (……だけど、私は……)  しかし火傷するような苦しさを伴い、 (……父の枷になってしまった……) (……彼の役に立てなかった……)  その果てに感情を見失った静かな想いだけを残し、 (……私は……) (……私たちは……)  寄せては返す波のように、それは頭に響いて俺の心を揺さぶる。(……あの人達を……) (……あの人を、助けて……)  意識の輪郭が再び曖昧になっていく中、二つの影は手を伸ばしながら遠ざかる。  そして、替わりに黒い世界がやって来た。        ◆ 「閉紋:トリック・ウィンド!」  それはチルトの声だった。  重く頭を締め付ける感覚を無理矢理振り払い、俺は目を閉じたまま自分に意識を集中する。  心臓の鼓動、体内を巡る血液の脈動、そして体の輪郭。  両手は扉板に突き立てたハクセンを握り、両足はその板の上に乗っている。  まとわりつくような来相は既になく、肌を心地よい風が撫でていく。 「クウロ! 大丈夫⁉って、下見て、下ッ!」  目を開けて下を見れば、チルトの風による影響か、軌道が開口部より球体上方へ大きくずれている。  俺は急いでハクセンを軸にして体重移動で軌道を修正し、同時に体を捻ってできるだけ穴と扉板の向きを合わせていく。  そして開口部へ直撃する瞬間、ハクセンを引き抜く反動を利用して、扉を一気に足裏で押し込んだ。  直後に重く鈍い金属音が盛大に響き、 「い゛っ⁉ ぐっくぅううううううぅ」  両足を駆け上ってくる衝撃に歯を食いしばりながら、俺は開口部のようすを確認する。  さすがに欠けて歪んだ扉板では開口部を完全に塞ぐことはできず、所々に隙間がある。  しかし来相の勢いはすっかり衰え、今はハクセンの刺さっていた穴や扉板の周囲から染み出すように漏れ出ているだけだった。  扉板もうまく開口部にめり込んで動く気配はない。  現相炉の下へと覗き込むように視線を向ければ、チルトが大きく手を振り、その隣にシンがやって来て手を上げると、親指を立てて大きく頷いた。  俺はそれを見て一息つくと、しかし、すぐに気を引き締めて顔を上げる。  目の前で蠢く巨大な黒い陰。  来相で無効化された障壁上部から、覗き込むような気配が直に俺の肌を震わせる。 「まったく、次から次へと面倒なことだな」  そう言って俺は、黒い怪物へと手にした白い刻器を向けた。        ◆  最初に来たのは、上空から降り注ぐ黒い触手の群れだった。  避けたとしても足下の現相炉が破壊されては意味が無い。 「閉紋:千里刃!」  俺は再び進行を阻む障壁つくるべく、円を描くように目の前でハクセンを振るう。  それに対して触手は迫りつつもその先端を膨らませ始め、そして蕾のようになった先端は、障壁に触れる直前で弾け、その中身をぶちまけた。  黒い表皮は霧のように霧散し、その内側からは白濁した液状のものがぶちまけられる。  視界一面が白く染まり、それが障壁に触れた途端、虫の羽音にも似た振動音とともに障壁が虹色に染まった。  そして次の瞬間には色が消え、何も無い空間を黒い触手がやって来る。 「なっ⁉」  とっさに半身をずらして避けたものの、触手の群れはそのまま直進する。 「しまっ……⁉ 閉紋:千里刃!」  口にしかけた後悔を呑み込んで、俺は目の前を横切る十数本の触手にワードを放つと、背後へも刻器を振るう。  剣線と交差した触手は瞬時に切断され、切り落とされた部分は黒い煙となって消え去った。  しかし、触手の進行は止まらない。 「はぁあああああああああ! 閉紋:千里刃ッ!」  俺は斬って斬って斬りまくり、触手の切れ端が次々に量産されては消えていく。 「クウロ! 私も援護を!」  下からチルトの声が聞こえ、その直後、目の前で触手が一本軌道を変えて、それは迷うことなく下へと向かって伸びていく。 「くっ! 閉紋:千里刃ッ!」  正面上方に振るっていた刻器を下へ、現相炉の球体表面をそぐような動きで横なぎの剣線を垂直落下していく黒線と交差させる。  触手は下へ向かう半ばで見事霧散し、しかし、そこからさらに触手が伸びる。 (裏に、もう一本あったのか⁉)  上から来る触手に対応しながら再び剣線を向けようとするが、イメージが間に合わない。 「閉紋:トリック・ウィンド!」  チルトの声がして下から一陣の風が吹き上がるものの、突風では触手の動きを鈍らせることすらできず、 「風でダメならッ!」  しかしチルトは矢のように迫る触手を素早くかわすと、ポールのように地面に突き刺さるそれを両腕で抱え、力任せに引きちぎった。  千切れた触手は力を失い、腕の中に残った黒い固まりも霧散し消える。 「よしっ! 掴めるなら、どんどん来なさい!」 「いや、チーちゃん、来られても困るんだけど……」  仁王立ちして言うチルトの後ろで、シンが困った顔を彼女に向ける。  そして彼は、俺の視線に気付いてこう言った。 「クウロ! あと数分! それだけ持ちこたえてくれ!」 「わかった!」  俺はハクセンを振りつつ短く応え、目の前の怪物へと再び集中する。  すると、触手がやってくる障壁の無い上部ではなく、障壁に阻まれた黒い巨体全体に変化が起こっていることに俺は気付いた。  巨体表面が波打ち、雨が振る水たまりのように無数の波紋が浮かんでいる。そして、その一つ一つの中心が蕾のように膨らみ始めた。 (これは、まさかっ!)  そう思った次の瞬間には蕾が次々と破裂を繰り返し、黒い巨体は飛散した白霧で隠れ、障壁は低い振動音とともに虹色へ染まって消え失せた。  再び現れた黒い陰からは新たな触手の群れが生まれ、巨体の全面から放たれるそれは、全方向から俺の視界を埋め尽くす。 「閉紋:千里刃ッ!」  迫る無数の先端に、俺は再び直進を切断する障壁を前面に展開する。  しかし、それも怪物の白液によって三度無効化され、次は間に合わないイメージが頭をよぎる。  それでも俺はハクセンを振るい、今度は触手自体を切断していく。 「閉紋:千里刃ッ!」  視界に捉えた触手は一瞬で霧散するが、さすがにすべては捉えきれず、逃した数十本が現相炉の下部、チルト達のほうへと吸い寄せられるように向かう。  急いで追撃するが、それでも止められなかった六本がチルトの背後にあるタンクへと、狙いを定めたように収束していく。 「さあ、どんどん来なさい!」  そう言うとチルトは触手へ向かって走り出す。  すれ違いざまに近くの触手を一本ずつ両手で掴むと、それを鞭のように振り回してタンクへ伸びる残りを絡め取り、さらに引き寄せ素早く毛糸玉のように丸めていく。 「うにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃーーーーーッ!」  そして、できた触手玉を振り回し、俺の逃した触手も余すことなく絡めていった。  触手の数には限界があるのか、束ねて結ばれ編まれるうちに、怪物から放たれる触手の数が減っていく。  俺は縦横無尽に飛び回るチルトがカバーできない触手をハクセンで切断し、そして気がつけば怪物の全身から伸びた無数の触手は一本のどでかい綱になっていた。  それを彼女は両腕でがっしり掴み、 「うっっっにゃあああああああああああああああああああああッ!!」  現相炉から遠ざけるように思いきり引っ張った。  黒い巨体が傾き、触手のない表面が剥き出しになる。 「今のうちにッ!」 「閉紋:千里刃!」  チルトに応えて俺は現相炉から飛び降りる。そして怪物に刻器を突き立て、内部から切断するイメージを送り込む。 《始錠:閉紋→来相転移》  巨大な塊をバラバラにする未来を過去へと確定。 《構過:来相@事象範囲》  黒い表面を無数の亀裂が走り、 《顕現:事象∽千里刃》  触手は怯えたように巨体へ戻って、不定形だった輪郭が球形へと変わる。  そして動きの止まった丸い怪物の上で、俺は黒い亀裂が溢れ出た白い液体によって一瞬で切断を無効化するのを見た。  直後、ハクセンが刺さったまま足下が震え、 《ヴ、ヴヴヴ、ヴォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!!!!》  肌を切り裂くような獣の絶叫が響いたかと思うと突然浮遊感に襲われる。  気付けば、ぱっくり裂けた大口の闇に俺は呑み込まれていた。        ◆  閉ざされた視界の中、ざらついた感触が俺の頭を締め付ける。 (……壊してしまえ……)  生温かさが首に絡みつき、息苦しさに声が漏れそうになる。 (破壊しろ。私から……、私たちからすべてを奪った元凶を……)  微かに開いた口から、無理矢理喉の奥へと何かが入り込んでくる。 (……母さんを、楽にさせてあげるんだ……) (……今日こそ、彼に告白を……) (……刻奏士になって人の役に……)  幾つもの思念が俺の中で混ざり合い、それは一つの想いになって俺の口から漏れ落ちた。 (……生きたい……)  それは単純で純粋な願いだった。  すべての根底にある、でも意味を持たないただの本能。 (……死にたくない……生きたい……もっと……もっともっともっともっと、生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい!)  絶対的で暴力的なまでに自分という存在を肯定する利己的欲求。  そうした圧倒的な奔流の中で、俺の心は取り残されたように冷たく静まり返っている。 (だから、俺には掴めないのか)  自分に無いものを突きつけられ、感覚が麻痺していく。  記憶も無く、言われるままに日々を過ごし、今だって成り行きでここにいる。 (レクトを助けたいのは、本当に俺の意志か?)  チルトは、そしてシンは、きっと自分の意志でここにいる。  それに比べて俺は、いつだって不断症を言い訳にして、周囲に流され……。  今さら浮かんだ疑問に意識は沈み、閉じ行く世界の中で今までの自分が消えていく。  そして意識が停止する直前、闇の中を白い線が微かに走った。 (……ハクセン……)  思わず脳裏に浮かんだ言葉に、俺は力なく自嘲する。  刻器を手に入れたところで、それは自分に欠けていた機能が一つ埋まっただけ。  それは他人と同じスタートラインに立っただけで、その先には何もありはしない。  自分が何をしたいのか、自分が誰なのか、そんなことさえわからない俺は、ただの人形と変わらない。 (それならいっそのこと、ここにある意志に身を委ねて……)  ホワイトノイズのように囁く声に、俺は抵抗する気力もなく……。 《困りますね》  それは突然、体の中から湧き上がるように響いた。  いつも耳にしてきた、そう、誰でもない俺の声。  しかし、その言葉は俺の意志とは関係なく、 《こんな偽りの未来ごときに惑わされるようでは》  温度の無い声色で言葉を続ける。 《まだ始まったばかりなのですから》  言葉とともに黒き闇は揺らめき始め、白い光へ反転していく。 《君の何も無い未来は》  そして、俺の声が知らないワードを口にする。 「閉紋:不変律(カウンター・エコー)」  周囲で蠢く無数の黒き未来が、俺を中心に調律されていく。 《始錠:閉紋→来相転移》  不変の未来は現在と過去を裏切ることなく、 《構過:来相@事象範囲》  未来があるべき過去へと還っていく。 《顕現:事象∽不変律》  意識が均一な光へと急速に覆われていく中、点だけになった闇に俺は触れる。 (……渡さない……)  闇から響く声は、手のひらに落ちた雪の結晶のように、 (……助けなければ……)  光に溶けて消えていく。 (……ナルミを……)  それは俺ではない誰かの、そして最後の願いのような気がした。        ◆ 「クウロ!」  下から吹き上げる風に乗ってチルトの声が聞こえる。  絡みつくような気怠さに体は言うことを聞かず、なんとか俺は張り付くような目蓋に力を込めて視界に景色を捉えた。  霧散していく黒い影の向こうには岩壁が見え、錆びついたような首を無理矢理動かして周囲を見回せば、黒い湾曲した球体が視界に入る。  巨大な黒き怪物の姿は見る影もなく、俺は真っ逆さまに地面へと落下していた。  下ではシンとチルトがこっちを見上げ、二人の無事に安堵しながら、俺はふと自分の手を見る。  ハクセンを握るその手には温かな白い霧が絡みつき、手から腕にかけて他人の手のように感覚が重い。  怪物に呑み込まれたとき、諦めかけた俺に話しかけてきた誰かのことを思い出す。  それが腕にいるような気がした直後、腕が勝手に動いて白い霧を振り払う。そして、返す動きでその霧をハクセンが切りつけた。  白い霧は刻器に怯えるように震えて消え去り、刻器はそのまま何かを指すようにピタリと動きを止める。  落ちていく中、その先へと視線を向ければ、白い線の延長上にはタンクと人の形をした黒い陰が一つあった。  さっきまでなかった陰にシンとチルトも驚いているが、それはタンクの窓から中を覗くように浮いている。 《ナルミ》  聞き覚えのある言葉が頭に響いた直後、影は人の形を捨ててタンクを覆い尽くした。 (やばい⁉)  そう思っても体は言うことを聞いてくれず、 「ナルから離れて!」  チルトが黒く染まったタンクへ向かって行くが、 「ナ、ナル、ミ……ナ、ナァ……ミ、アア、ナアアア、オァア」  震えるような声が響いてタンクに触れた瞬間、チルトははじき飛ばされる。  為す術なく見つめる俺たちの視線の先で、 「お父さん! やめてッ!!」  それは陰でも俺たちの声でもなく、タンクの中から響くB9の声だった。 「お父さん! もう……、もういいの!」  B9の声で、しかし明らかに違う口調で泣き出しそうに言葉が震えている。  その言葉に陰は少しの沈黙で応え、 「アア、やっぱり……、生きて、イタ」  そう安堵のため息にも似た声を漏らした。 「ここまでだな」  すると不意に無感情な声が俺の口から聞こえてくる。 「タイム・ゼロ」  続く自分の声に腕が反応し、その手に握られたハクセンのリングに光が生まれた。  光は虹のような七色を放ちながら、まるで力を溜めるように白い輝きを増していく。 「閉紋:零滅刃(ゼロ・バニッシュ)」  鍵となる言葉とともにハクセンの先端へと光が収束し、それは音もなく蜘蛛の糸のようにタンクへ、そして現相炉へと一瞬触れるように伸びる。  直後、陰もろともタンクと現相炉が蜃気楼のように音も残骸も残すことなく消失した。 「なっ⁉」  驚き漏れた自分の声に、俺は体が自由に動かせることに気付く。  がらんとした洞窟の中、取り残されたように裸のB9が地面へと投げ出され、それをチルトが受け止め俺を驚きの表情で見上げる。  そして、彼女のそばではシンが問い掛けるように真っ直ぐに俺を見つめていた。 「俺は……」  手の中には光を失ったハクセンがある。 「俺は、いったい……」  刻器は相変わらず俺の体の一部のようで、 「……なんだ?」  それは自分に対する疑問となって、俺を無力の底へと突き落とした。        ◆ 「クウロ、大丈夫?」 「あ、ああ……」  落ちる俺を受け止めてくれたチルトにそう応え、俺は地面へと下ろされた。  が、膝に力が入らず思わず倒れそうになって、 「ちょっと⁉ 全然大丈夫じゃないじゃない!」  チルトが怒りながらも慌てて肩を貸してくれる。  頭が重い。  もう何も考えたくない。 「おーい。クウロ、大丈夫かー?」  呼びかけるシンの声に視線だけをなんとか向けると、少し離れた場所に端末を手にしたシンと白いだぼだぼのワイシャツを一枚だけ着たB9の姿があった。  もじもじと恥ずかしそうにする彼女に、俺はシンの趣味かと力なく苦笑を浮かべる。 「もう……、とにかく行くよ」  そう言って、ちょっと不機嫌そうに歩き出すチルトに掴まりながら、俺はシン達のところへ向かった。  合流するとシンが、ハクセンを杖代わりに立つ俺を見て、 「いやー、刻器持ちはさすがにすごいな。いつも焦がしてる天井の比じゃないね」  そう、からかうように言ってくる。  そして、少し真面目な顔で訊いてきた。「で、クウロ、おまえ本当に大丈夫なのか?」 「俺は……」  どこか心配そうなその顔は隣のチルトも同じで、二人の視線に俺は黙り込む。 (わからない)  その言葉を口にすることに、俺はためらいを感じていた。  それを口にしたら過去だけでなく今も失ってしまいそうで、自分が保てなくなりそうだった。  俺たちの間に沈黙が流れる。  チルトの尻尾が不安げに小さく揺れて、彼女は何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。  そんな沈黙を破ったのはチルトでもシンでも、ましてや俺でもなく、 「ありがとうございます」  そう言ったのは、B9の姿をした明らかに雰囲気の違う誰かだった。 「君は……」 「私は……」  言葉に詰まる俺に彼女は少し考え込むと、まっすぐに俺を見て自分のことをこう言った。 「私はナルミ。ナルミ=ユウノ。そして、今はナル=レクトでもありますが……」  ちぐはぐな口調に自分でも違和感があるのか、彼女は首をかしげて困ったようにシンを見る。  それを追うように俺とチルトも彼を見た。  集まる視線に、シンは目を逸らして頬をかきつつ話し始める。 「えーと、だな、ナルさんの救出には一応成功した」 「一応?」  怪訝な顔でチルトが疑問を投げかける。  その視線に気圧されながらもシンは話を続ける。 「あ、ああ、体は分解されてたがナルさんの精零をB9の体に移すことはできた。ただ、彼女の精零以外にも、もう一つ、精零があってだな……」 「まさか、その精零とナルが一緒になっちゃったの?」 「まあ、簡単に言うと、そういうことになるかな?」  チルトに詰め寄られ少し下がりつつ、シンは言い訳じみた説明を続ける。 「で、でもだな、彼女――ナルミさんの精零がナルさんの精零を包み込んで周囲の来相から浸食されないように守っていたわけで、そうでなければナルさんも……」  小さな声になりながら、なおもシンはブツブツと何か言い続ける。  そんな彼にチルトはため息をつくと、その横で様子を窺っていた彼女を見る。 「えーと……取り敢えず、なんて呼べばいいのかな?」 「……ナルミで構いません」  レクトを思わせる少し硬い口調で彼女はそう言った。 「えっ? でも……、それで本当にいいの?」 「いいんです。私はナルミさんの……、彼女が消えた原因を探るための道具に過ぎないのですから」  じっと見つめるチルトの瞳から彼女は俯いて視線を外す。すると、今度は先程とは違う優しい口調で彼女は言った。 「違うよ。あなたは私と同じ、父さんの娘だよ」  そして自分を抱きしめながら彼女は続ける。 「私にはわかるの。あなたの記憶が、そこにある想いが……。だから、もう、あなたは私。私はあなたなんだよ」 「よし、それならナルミさんで」  そう軽く言ったのはシンだった。  彼は「よろしく」と彼女に手を差し出す。  しかし、その手を払い除けて、チルトが人差し指をシンの鼻先に突きつけ言い返す。 「なんで、そうなるのよ? あんた、今の話ちゃんと聞いてた?」 「もちろん聞いてたさ。ナルさんがそう望むなら俺はそれに従うよ。まあ、困難をともに乗り越えた今なら、一歩進んで呼び捨てもありかなって思うけどね。ナ・ル」  ウィンクしながら言うシンに、女性二人は怯えたように身を寄せ合うと蔑むような目を彼に向けた。そしてチルトはショックで崩れ落ちるシンを無視して、ナルミ=ユウノのおでこに自分のおでこをつけて、真っ直ぐ彼女を見つめて言う。 「じゃあ、今までどおりナルって呼ぶね。ナルミのナルだし、二人とも私の友達だから」 「そういうことなら……。わかりました、タルトさん」  お互いに笑顔になると二人は抱きしめ合った。 しかしチルトは、すぐに離れると眉をつり上げ彼女のおでこをつついて言う。 「でも、違うでしょ? 私がナルって呼ぶんだから、あなたもチルトって呼ばないと」 「あの、でも……」 「でもじゃないの。チルトって呼ばなきゃダーメーなーの!」  困り顔のユウノのおでこを指でグリグリと押してチルトは言った。  それに眉間に皺を寄せて目を閉じていた彼女は、堪忍したようにおずおずと口を開く。 「えっと、じゃあ……これからもよろしくね、チルト」 「うん! よろしくね、ナル! クウロとシンもそれでいいよね。あ、でもシンは呼び捨て禁止だから」 「ああ、わかった」 「えー、そんなぁ」  シンに釘を刺しつつもチルトはどこか楽しげで、そんな俺たちを見てユウノ――ではなくナルも楽しそうに笑顔を浮かべていた。  そんな中、チルトがふと首をかしげて疑問を一つ口にする。 「あれ? B9の体にナルが移ったのはいいとして、じゃあ、元々この体にいたB9の精零は?」  その問い掛けにシンは険しい表情を浮かべ、俺とナルは黙り込む。  沈み込んだ空気にチルトは俺たちを不安げに見回すと、 「え、何? なんか私まずいこと言った?」 「いや、そうじゃないんだが……」  慌ててシンが気まずそうに否定を口にして、渋々といった感じでチルトに話し始める。 「精零っていうのは構造上、かなり容量というかスペースを食うんだ。だから人間にしろパペットにしろ、一つの体には一つの精零しか入らない。彼女だって融合した状態だったからこの体に収まったんだ。だから、B9の精零は……」 「ああ、そう、なんだ……」  さすがにシンの言わんとすることを察して、チルトもそれ以上は何も言わなかった。  B9は、口封じと燃料として利用するために俺たちを殺そうとした。だから、自分たちの身を守り、B9を犠牲にしてその体を利用したとしても、それは自業自得で仕方のないことだったと言うことはできる。  殺そうとするからにはその反対もあることを、人間でないパペットのB9なら、なおさら可能性の一つとして想定していなかったはずはない。  自分勝手な妄想だと自覚しながらも、俺はそう自分に言い聞かせた。 《なっ⁉ なんだ、ここは?》  すると突然、そんな重い沈黙を破って場違いに高い声が聞こえた。  それはシンの近く、手にした端末から聞こえてくる。 「おお! 無事に復帰してくれたか!」  皆の視線が集まる中、シンは端末の画面を見て一人喜びの声を上げた。 「ちょっとシン! こんなときになんなの⁉」  イラッとした様子で言うチルトに、シンは慌てて自分の端末画面を見せる。  それを見たチルトはますます顔を険しくして言った。 「何よ、このちびキャラ?」 《ち、ちびだと? ちんちくりんな馬鹿力女には言われたくないな》  画面の中では、白衣姿の可愛らしい三頭身の女の子が、顔を引きつらせつつも平静を装うように、その長い白髪を優雅にかき上げている。 「なッ⁉ 一体何なのよ! この生意気な二次元ちびはッ!」  目を血走らせて、チルトは立てた爪をシンに突きつける。 「いや、だから彼女が……」 「もしかして、B9さんですか?」  そう言ったのはナルだった。 《だ、だったらなんだと言うのだ? 余り、その顔を近づけるな。奇妙な気持ちになる》  画面をじっと見て言うナルに、しかし画面の中の少女は、あっちに行けと手を振って顔を逸らす。  チルトは、そんな二人を交互に何度も見返して、 「えっ、ええぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ⁉」  と、洞窟の端まで飛び退いて驚いた。そして、ダッシュで戻ってくるとナルと画面を並べてまじまじと見比べる。  ちびキャラB9は、そんなチルトを無視すると、 《まったく、私をこんな窮屈な場所に閉じ込めた上に、この失礼な扱い。しかもなんで……、なんで三頭身なのだ!》  そう言って地団駄を踏んだ。  彼女の頭上では煙のマークがぴょこぴょこと動き、足下では砂埃のエフェクトが表示されている。  その動きが突然「ハッ」という画面一杯に表示された文字とともに止まる。そして画面内で振り返ると、後ろ姿のまま自分の正面を指さし震える声で言った。 《ま、まさか、おまえの趣味かッ⁉》  その怯える背中に、全員の視線が端末を持つシンへと向かう。  突然集まった視線に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするシンだったが、 「いやいやいやいや! 端末の空き容量の関係で圧縮する必要があってだな!」  そう慌てて言い訳を口にする。  しかし、チルトはその手から端末を奪い取り、 「このロリコン! 変態ッ!」  そう罵倒すると、ナルを背後にかばうようにしながらシンから距離をとった。  端末を渡すまいとぎゅっと抱きしめるチルトの肩口から、ちらりとナルが顔を覗かせて、 「最低ね」「最低です」「最低だな」  と、見事に揃った三人の声にシンが涙目で俺を見る。 「クウロォ~」  助けを求める友に俺は苦笑するしかなかった。        ◆ 《それにしても、あの男は一体何を考えていたのか》  和み始めた空気の中、チルトの持つ端末からB9の声が聞こえてくる。 《まさか零爆で現相炉を消し去るとは……》  俺たちに向けられた画面では、やれやれという仕草で白衣が肩を落とし、 《おかげで、私の存在意義がなくなってしまった》  B9のつくため息が、端末からやけにはっきりと聞こえてきた。  その諦めを含んだ音に、俺は現相炉とともに消してしまった怪物を思い出す。  推測でしかないが、来相に呑み込まれたあの男の精震が、あの怪物を生み出したのではないか、そんな気がしていた。  レクトと互いに名で呼び合い、レクトを目の前で失った男。  彼は、どんな想いでここに来たのだろう。  そんなことを思ってナルのほうを見れば、彼女もチルトの横で俺をじっと見ている。 「あの人は……」  そして、その小さな唇から言葉がこぼれるように漏れた。  皆の視線が彼女へ集まる中、何も無くなった洞窟の天井を見上げ、ナルはゆっくりと話し始める。 「あの人は私の、私たちの……父です」  その言葉に俺は震えだした自分の手を、ハクセンを握りしめて押さえ付けた。        ◆ それは十一年前の出来事だった。  当時、ナルミ=ユウノはスフィア13の生徒で、俺たちと同じように刻奏士を目指していた。  しかし彼女は神隠しに遭い、その捜索はわずか一週間で打ち切られる。  学園は彼女を退学処分とするが、そのことに納得できなかったナルミの父、ケン=ユウノはウェイス=レクトという偽名を使って、たびたび学園で起きていた神隠しとそれを隠す学園のことを調べ始め、その中で彼は現相炉の存在を知る。  そして、その関連施設跡で一体の燃料用パペットを拾った。 「それが私、ナル=レクト。でも結局、私はマスターの役には立てなかった。所詮、私は消費されるための存在。誰かのそばで役に立とうだなんて、そもそもが間違い……」 「それは違う!」  ナルの言葉を遮って叩きつけるように言ったシンは、彼女の華奢な両肩を掴んで続ける。 「いくらパペットが生体人形と言っても人間とは体の構造が違いすぎるんだ。だから正直、精零移植が成功する確率はかなり低かった。成功しても不適合多機能不全で長くは生きられなかったかも知れない。でも、ナルがいたからこそ、ナルミさんは今こうして生きているんだ。今、この体とナルミさんを繋いでいるのはナル、君なんだ。君が君だったから彼女は助かったんだよ」  彼女の瞳を、その奥を真っ直ぐに見つめるシンに彼女は目を見開いたまま涙を浮かべ、 「私は……、でも私は……」  頭を振ってシンの手から逃げるように一歩を下がる。  そして、震える自分を抱きしめて絞り出すように叫んだ。 「マスターを……、父さんを助けられなかった!」  唇を噛み締める彼女の瞳からは、涙が止めどなくこぼれ落ちていく。 「……ナル」  後ろから優しくチルトが抱きしめ、ナルは力なく体をくの字に曲げると、顔を手で覆って嗚咽を漏らし続けた。 「……俺は……」  何をしたのか。何が彼女を泣かせているのか。  ハクセンを握る手が……、胸が痛い。  自分はなんでここにいるのか。何をしにここに来たのか。 問いばかりが頭に浮かび、しかし、思考は答えもなく堂々巡りを繰り返す。  俺たちは彼女が泣き止むのを黙って待ち、泣き声が落ち着いた息遣いへと変わると、彼女は顔を上げてチルトから離れた。  そして俺たちにこう言った。 「ごめんね。でも、ありがとう」  しっかりと前を向いて俺たちを見る彼女の言葉を、俺は理解できなかった。  泣き腫らした顔で、彼女はため息をつくように寂しげな声で続ける。 「でも、本当に……。本当に、何も無くなっちゃったな」  声音とは対照的にその表情は笑顔で、 「なんで、笑って……」  思わず俺の口から漏れ出た疑問に、彼女は一度深呼吸をしてからはっきりと答えた。 「だって私は今ここにいるもの。私として、ここに。それに……」 「それに?」  俺はすがるように問い掛ける。 「父も母も過去の私も、今の私には無いけれど、ただそれだけでしょ? 私は与えられた役割を実行するだけの道具じゃない。自分で考え、自分の足で歩いて行ける人間だもの」  目を閉じ胸に手を当てて言う彼女の姿は、まるで自分に言い聞かせているようで、その声は優しさと力強さに溢れていた。 「だから、気にしないで」  微笑む彼女の言葉に俺は息を呑む。 「でも、俺は君の……」  父親を殺したのだと言おうとした俺の唇を、彼女はそっと人差し指で遮った。 「私は言ったでしょ? ありがとうって」  俺を真っ直ぐに見る彼女の顔は少し怒ったようで、しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、ナルはもう一度繰り返す。 「父を、止めてくれてありがとう」  唇に触れる人差し指の温もりが、俺の冷たくなっていた心を解かしていく。 「それに、あそこまで精零が崩壊しちゃったら、もう手遅れ。たとえマスタークラスの刻奏師でもね」  そう言ってナルは俺の鼻先を人差し指で弾くと、パンと両手を叩いた。 「はい、この話はもうおしまい。さあ、帰りましょう。私たちの学舎へ」  彼女の言葉にチルトとシンは笑顔で頷き、俺はなんとか苦笑を浮かべる。  気がつけば、いつの間にかハクセンを握る手の震えは収まっていた。