【エピローグ】  いつもどおり校舎へと続く赤レンガの道を歩きながら、俺はシンと登校していた。  あれから一年。  俺たちは相変わらずスフィア13で学園生活を送っている。  ナルも学園生活に復帰し、今では優秀な生徒として日々を過ごしている。前に講義で術が使えなかったのは、潜入調査ということで目立たないようにしていたかららしいのだが、彼女いわく「これが今の私だから」ということで、もう隠す気はみじんも無いらしい。  まあ、転入時から充分目立ってはいたのだが、ユウノの前向きな性格が影響したのか、後輩――特に一部の女生徒からは「お姉様」と慕われるまでになっていた。  ナルが戻ってきたこと、それと現相炉が無くなりそれに起因する現象が起きなくなったことで、七不思議に関する話題はあっさりと元の噂話程度に戻り、現相炉の存在を隠していた学園側からも今のところ動きはない。  実に平穏な日々だ。  シンから聞いた話では、B9が師匠に現相炉関係の情報を提供し、二人で何やら裏工作を働いたらしい。  俺はと言えば、ハクセンのおかげか斬りまくって不断症のストレスが解消されたのか、以前のように術が暴走するようなことはなくなっていた。そのおかげもあって、今ではナルの少し下くらいの成績を修めている。  そしてシンはと言えば、 「おーい。ナインさーん」  俺の横で端末に向かってB9の名を呼んでいた。  さっきからずっと端末の画面に表示された木の扉を指でノックしているが、何度やっても反応は無いようだった。 「はぁ、今日も朝からジルさんのところか」  うなだれる友を横目に、俺は手にした缶の中身を喉の奥へと流し込む。  今日の朝食は肉じゃが定食味(小松菜の味噌汁風味クルトン入り)だ。ジャガイモと豚肉の脂の甘さに、クルトンのしょっぱさがアクセントになって実に旨い。  俺はクルトンを口の中で転がしながら、大きなため息をつくシンに缶を向ける。 「飲むか?」 「飲まねぇよ」  いつものやりとりに苦笑しながら、俺は缶を持つ手とは反対の手で腰に吊したハクセンに触れた。  一見変わらない日常の中で、誰もが少しずつ変わっている。  あれから俺は、少しは自分らしくなれたのだろうか。 そんなことを考えていると、後ろから慌ただしい音が聞こえてくる。 「ちょ、ちょっとチルト! 待ってよ!」  それはナルの声で、振り返れば猛ダッシュで迫ってくるチルトの姿もあった。  声の主はと言えば、チルトの腰にしがみついてぶら下がっている。  近くに来ると、チルトは急ブレーキをかけるように両手両足を前に突き出し滑り込んで、 「えっ⁉ チーちゃ……」  ドン! 「うおっ⁉」 「セーーーーーーフ!」  とっさに避けた俺の前を通り過ぎ、彼女は両腕を真横に広げてピタリと止まる。 しかし俺は、少しよろけた拍子に口の中のクルトンを奥歯で噛みそうになって慌ててそれを呑み込んだ。 「んぐっっっ⁉ ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ、かはっ、ケホッ、はっ、はぁはぁ……」  咳き込む俺の頬を冷たい汗が流れ落ちる。  激しく脈打つ心臓を抑えるように胸に手を当て、俺は湧き上がる恐怖に身を震わせた。  今のはやばかった。  危うく、あれをもう一度体験するところだった。  俺の脳裏に、あのときの感覚が蘇る。  それは、あの事件が終わってから数日後のことだ。  ハクセンで思う存分斬りまくった俺は、もしかしたらと試しにステーキを食べてみた。  肉に歯を当てて力を込めると相変わらず強い抵抗感があったが、しかし俺は思いきって肉を噛みきった。そして、直後に背筋を走り抜けるすさまじい寒気とともに気を失った。  次に目を開けたときにはベッドの上で、横で黙々と俺の肉を食べていた師匠から聞いた話では、俺が不断症と名付けた症状は構戒錠文という制約によるものらしい。  なんで今まで教えてくれなかったのかと問い詰めたが、師匠はステーキを平らげつつ、 (刻奏士にもなれん奴に言ったところで意味が無いだろ)  と事も無げに言った。  構戒錠文は自身の精零を拡張することでつくられる強力な高次符で、一度つくられた構戒錠文は精零の一部となり、取り去ることは連鎖崩壊による死を意味する。  それだけに、本来はマスタークラスが自身の力の象徴として自分に施すもので、当然、俺はそんなことをした記憶は無いが、なんにしても、この体質は一生どうしようもないということだけはわかったのだった。 「あれ? シンはいないの?」  そんな嫌な回想中の俺のことなど気にもせず、獣耳娘は小首を傾げて訊いてくる。 「おまえな、何がセーフだ。危うく俺の意識がアウトするところだったぞ」 「だって遅刻しそうだったんだもん」 「だってじゃない。あんなのまともに食らったら……」  そこまで言って、俺はさっきから黙ったままの友のほうを見た。  しかし、さっきまで隣にいたはずのシンの姿がいつの間にか消えている。 「あっ、あそこ……」  そう言ってナルが指さしたのは、道の両脇に植えられた並木の内の一本だった。  その大分上のほうに、何か大きなミノムシのようなものがいる。 「ナルさん、おはよー」  よく見ればシンが逆さまで木の枝にぶら下がって挨拶している。  なんであんなところにと思ったが、チルトが突っ込んできたときに何か大きな音がしたことを思い出し、俺は状況を理解した。 「いやー、朝から気性の荒い猫に追いかけられてね。少し身を隠していたんだ」  制服の上着をマントのように垂らし、枝に引っかかったズボンを両手で握りしめながら、それでも澄ました顔でシンが言う。  しかし、枝に引っかかったズボンからは徐々に体がずり落ちてきて、危うく中身が見えそうになっていた。 「さ、さっさと行きましょ」  少し顔を赤くしながら不機嫌そうにチルトは言うと、同じく赤面しているナルの手を引いて歩き出す。  シンは、なおも木の上で何か言っていたが、俺たちは他の学園生から向けられる好奇の視線を避けるように宙づり変態の下を通り過ぎていく。 「え、ちょっと、ナルさん? みんな? 言っちゃうの? 助けてくれないの?」  友の尊い犠牲を胸に秘め、俺はチルトとナルの後に続いた。 「くっ! こうなったら……。そうだ、この緊急事態を利用してナインさんを呼ぶ手も……。ん? 端末が無い! どこ行った⁉」  友の声を背後で聞きながら、俺は地面に落ちていた端末を素早く拾ってポケットにしまう。  すると、前を行くチルトが大きくため息をついて話し始めた。 「それにしても、彼女も物好きよね」 「彼女って?」  俺の疑問に、チルトはシンのほうを視線だけでちらちらと窺いながら話を続ける。 「B9のことよ?」  シンの端末へ移植されたB9は、自分の三頭身データに興味を示し、それを用意したのが師匠だと知ると、いきなり師匠を自分の新しいマスターにすると言い出して俺たちを驚かせた。 「本当に、あのときは驚きました」  ナルの言葉に俺とチルトも頷き返す。 「まあ、でもB9って半世紀近く現相炉を管理してきたんでしょ? だったらジルさんと同い年くらいだから共通の話題とかも多いだろうし、意外と気が合うのかもね」  チルトの言葉に、頑固じじいの隣に浮かぶ白髪白衣少女を思い浮かべ、俺は思わず眉根を寄せた。  結局、師匠はB9の申し出をはっきりと断ったのだが彼女は諦めず、最近ではすっかり押しかけ女房ならぬ押しかけ助手として、あの三頭身キャラで情報屋の仕事を勝手に手伝っている。  彼女としては、刻奏師としてよりも情報屋としての師匠が気に入ったらしい。  あの頑固で偏屈な師匠に可愛らしい三頭身の、しかもデータとは言え女性の助手が現れたことで、情報屋の間では「あのジルに女ができた」という情報が瞬時に広まり、一週間ほど師匠は頭を抱えることになった。  その様子を思い出して俺とチルトは苦笑し、それをよそにナルは空を見上げて、 「彼女も、自分の道を歩き続けているのですね」  そう嬉しげにつぶやいた。  そんな彼女にチルトは「そうだね」と微笑みかけ、俺は自然と腰に吊した刻器に触れる。 《何も無い未来は、まだ始まったばかりなのですから》  あの言葉が脳裏に蘇る。  あれは一体何だったのか。そして、自分は一体何者なのか。  気がつくと、俺はその事ばかり考えている。 (自分のことは自分でやれ。それは、そのための道具だ)  刻奏師でもない俺に刻器がある理由を訊いたとき、師匠は俺にそう言った。  多くを失ったナルは、それでも「自分で考え、自分の足で歩いて行けるのが人間だから」と今も自分の道を歩いている。  だったら俺がしたいことは何か。俺には何ができるのか。 「とにかく、この道を進むしかないってことだよな」  かつての俺が望み、そして今、俺がいる道の先にあるもの。  ――刻奏師――  きっと、それが始まりで、答えは求め続ける限りその先にある。  いつだって、自分はそこにいるのだから。  ハクセンの柄を握り、俺は決意を新たに一歩踏み出す。そして、軽くなった足取りで前を行く二人を追いかける。  そこで、ふと俺の頭を疑問がよぎった。 「そういえばチルト、今日はなんで遅刻しそうになったんだ?」 「え? なんでって……。べ、別にいいでしょ?」  動揺する彼女の隣でナルがクスッと笑う。 「ちょっとナル⁉ なんで笑うのよ!」 「ごめんなさい。だって、なんだか可愛くて」  顔を赤らめるチルトの横で、ナルが謝りながらも話を続ける。 「少し遅くまで勉強してただけでしょ?」 「え? チーちゃんが勉強? しかもナルさんと一緒にって。そういうときは俺も呼んでくれないと」 「何よ。私だって、やるときはやるんだから。だって、そうしないとみんなと……って、なんであんたがいるのよ、シン⁉」  驚き立ち止まるチルトに、いきなり現れたシンはなぜか余裕の態度で彼女を見下ろす。  その小馬鹿にしたような視線にチルトは悔しそうに頬を膨らませると、 「あ、あんた達には負けないんだからねッ!」  そう言って目尻に涙を浮かべてキッと俺たちを睨みつけた。  自分は関係ないと思っていたのかナルは困惑気味にオロオロし、俺は取り敢えず殺気立つ獣耳娘を落ち着けようと、チルトの両肩に手を置いてこう言った。 「まあ、頑張れよ」  励ますつもりで言った俺の言葉にシンがプッと噴き出し、チルトの顔はますます赤く険しくなっていく。 「ふ、ふふふふ、ふふふふふふ」  そしてチルトが低い声で笑い出す。 「あのー、チルトさん?」  なぜか俺の背中を冷や汗が流れ始め、ナルが自然な動きでチルトから一歩距離をとった。  チルトは静かに俺の手をはねのけ、そのまま俺たちをビシッと指さすと、 「見てなさい! 絶対にあんた達全員、次の試験までに追い抜いてやるんだから!」  そう尻尾の毛を逆立てて威嚇してくる。  そんな猫娘に俺は苦笑を浮かべ、 「はぁ、まったく面倒だ」  と、空を見上げて諦めのため息をついた。  視線の先にあるのはただの青空で、そこには相変わらず大陸が一つ浮かんでいた。        了