【プロローグ】  俺には四年より前の記憶が無い。  いきなりで、なんの脈絡も無い話だが、事実だから仕方がない。  もちろん自分が人であることや生活に必要な最低限の知識はあったが、それ以外は何もわからなかった。  ただ、最初に目が覚めたとき、俺の視界には偏屈な爺さんのむさ苦しい顔があって、よくわからない状況の中でも自分に運がないことだけは理解できた。  きっと落胆の表情を浮かべていただろう俺を見下ろして、爺さんも厄介なことになったとでも言いたげな表情を浮かべていた。  しかし、彼の口から出てきたのは別の言葉だった。 「わしの名はジルだ」  告げられた名前に俺も名乗ろうとして、しかし俺の思考はそこで止まった。  口を半開きにしたまま呆然としている俺を大して気にすることもなく、ジルはそばにあった椅子に腰掛ける。  そこで俺は、自分がベッドの上に横たわっていることに気がついた。  体を起こそうとするが、全身が重くて指さえも動かせない。しかも少し動こうとしただけなのに疲労がすさまじく、呼吸が乱れて俺は力なくベッドに再び沈み込んだ。  呼吸が少しは落ち着き始めた頃、それまで黙って見ていたジルが口を開いて話し始めた。  俺が近くの森で気を失っていたこと。それを仕事帰りにジルが見つけたこと。そして、あのまま死なれては目覚めが悪いからと、しかたなく自分の家に連れてきたこと。  そこでジルは一つため息をついて立ち上がると、付け足すようにこう言った。 「取り敢えず、落ち着くまではここにいろ」  背中を向けてジルが扉の向こうへと消え、静まり返った空気に俺は周囲を見回した。  剥き出しの木材で豪快に組まれた家の中には、猟銃のような物やナイフなどが壁に掛かり、それらと並んで大きな獣の毛皮がぶら下がっていた。  部屋は大きく、中央に置かれた一抱えはありそうな丸太でできた木製テーブルにはシンプルなランプが一つ。しかし、そこに明かりはなく、代わりに室内を満たす光は壁に設けられた窓から入ってきていた。暖かな日差しを取り込むガラス窓の向こうには明るい緑が広がり、小鳥のさえずりが聞こえていた。        ◆  しばらくして普通に体を動かせるようになると、俺はジルに自分の名前を付けるように言われた。それまで俺は、「おい」とか「おまえ」とかで呼ばれていたが、外に出るようになったときにそれでは都合が悪いということだった。  俺は面倒だなと思いながらも、取り敢えず自分にクウロという名前を付けた。意味はない。ただ口を動かしたら、そんな音が出てきた。それだけだった。  その後も俺は何も思い出せないまま、ジルに言われるままに日々の家事と運動をこなし、それ以外は食っては寝るという変わらぬ毎日を続けていた。  そんな時間が一年ほど続いたあるとき、俺はジルが生業にしている刻奏師(クロッカー)という仕事を手伝うことになった。  以前に、なんとなくジルがやっている仕事について聞いたとき、彼は自分がやっているのは「ただの便利屋」だと言っていた。鍋の修理から人捜し、さらには森に現れる怪物の退治まで、依頼されればなんでもこなすのだと。  そして、実際に彼の仕事を目にして俺は驚いた。  確かにそれは鍵の修理や害獣の駆除といったものだったが、それを解決する手段が普通ではなかった。ジルが使ったのは符と呼ばれる紙切れと黒い指輪だけだった。  それらを使って彼は刻奏術(クロック)と呼ばれる術を行使した。それは、ときに時間を巻き戻すかのように壊れた物を復元し、ときに凶暴な獣を一瞬で灰へと変えた。  まるで手品か魔法のようなそれは、しかし現実に現象として目の前に存在した。  世界の可能性を操作する術。それが刻奏術だとジルは言った。そして、世界の一部である人間の誰もが持っている力だとも。  それを見た瞬間、俺の中で何かが動いたような気がした。  そして気がついたときには、俺はジルに刻奏術を教えてくれと言っていた。  しかし、ジルが俺に刻奏術を教えてくれることはなかった。  代わりにジルは、俺をクロノ・スフィア13と呼ばれる刻奏術を専門に学ぶための全寮制の学園へと放り込み、そこで俺は上位の成績は愚か、順位さえもつかない落ちこぼれ――No Numbersの烙印を押された。  まあ、刻奏術のことだけでなく知識全般が乏しい俺は筆記試験で全滅し、実技で素養だけは見出されてかろうじて入学を認められたのだから、当然と言えば当然の結果だった。  そして俺は、学園の第一六〇期生として通称「最低十三組」とも呼ばれるNo Numbersだけが集められたクラスに在籍することとなった。  卒業すれば弟子にしてやってもいいとジルは言っていたが、実際のところ、それはかなり厳しい現実だった。  それは成績のことだけではなく、ジルと二人で暮らしていたときには気づかなかった自分の生活習慣というか、体質の問題も大きく影響していた。こればかりは努力でなんとかなるものではなく、そのせいで俺は学園中から変わり者として奇異の視線を向けられ、実技でも失敗続きだった。  そんな状態が一年、二年と続き、俺はいつしか学園にいることに疑問を覚え始めていた。