【最終章】 「次が最後のゲームとなりますが……」  青儀が周囲を見ながら話し始める。  いつしかヒーローショーのような偽りの現実は剥がれ落ち、人々の顔には不安の色が表れていた。 「私どもとしては、もう十分に次期バージョンのHARをご覧いただいたので、これ以上無用な勝負はしなくても構わないのですが、皆様はどうなされますかな?」  満足そうな笑みを浮かべる青儀に、組合長を初めとした商店街の面々に焦りの表情が加わる。  そのとき、近づいてくる大きな足音に言葉は気づいた。  足音のほうに顔を向ければ、見知った顔がそこにはあった。 「次は、これじゃ」  聞き覚えのある太くて大きな声とともに、柔道着姿の大男が現れる 「おじい!」  言葉の声に書道は豪快な笑みを見せると、彼女のほうへと何かを放り投げる。  それは光沢のある銀色で、細長い形をしていた。  飛んできたものを掴んで、言葉は手の中のそれを見る。 「これって……」  それは、細長いボールペンのような形をしていた。 「ア……なんだっけ?」 「アウロラのアスティルじゃ。おまえは、また人の話をすぐに忘れよって」  ため息をつきながら、書道が万年筆の名前を言う。  その足で書道は森のところへ向かうと、その手を握って大きく上下に振り回した。  小柄な森の体が、書道の手の動きに合わせて何度か少し宙に浮く。 「久しぶりじゃな! 元気にしておったか!」「字医さん、どうしてここへ……」  書道の握手から解放された森は、ふらつきながら書道に答えた。 「ちょっと立ち寄ってみただけなんじゃが……。どうかな、わしもこの勝負に参加させてもらえんかな?」 「いや、しかし……」  渋る森に、書道はグローブのような手で背中を叩きながら言った。 「なに、悪いようにはせんよ」  咳き込む森に、今度はその肩を掴みながら書道は笑顔を向ける。  観念したように頷く森に、書道は「任せておけ」と言って青儀のほうを向いた。  しかし、その視線は青儀の後ろに止めてある車に注がれていた。  その車の中、白いタキシードの男は下を向いたまま口の端をつり上げてつぶやいた。 「教授……」        ◆ 「これで、おじいが勝負するの?」  文章や絵美を連れて近くへと来た書道に、言葉は疑問を投げかけた。  書道は、きょとんとした顔を言葉に向けて答えた。 「いや、勝負するのはおまえじゃが?」 「?」  言葉も書道と同じ顔をした。 「えーーーーーーーー!」 「ちょっと、言葉さん⁉」  集まる視線に、絵美が慌てて言葉の口を押さえる。  文章は理解できないといった顔で書道を見た。 「師匠! 言葉には無理ですよ!」 「無理とは何よ」  ムッとした表情をして、言葉は小声でつぶやく。 「いや、この勝負は言葉でなければダメなんじゃ」 「おじい……」  両肩を掴んで力強く言う書道に、言葉は胸に温かいものを感じて笑顔を浮かべた。  しかし、それはすぐに歪んだものとなって言葉の口を開かせる。 「痛い。痛いから!」 「おお、すまんすまん」  言葉は、苦笑いを浮かべる書道を見上げて口をとがらせた。  そして肩をさすろうとして、その手にした万年筆を見る。  その銀色の表面には、周りで見守る商店街の人たちの姿が映っていた。 「本当にわたしがやるの?」  言葉は不安そうな目で、書道を見上げる。 「そうじゃ」 「でも、わたし、これのことボールペンとか言っちゃったし、それに、こんな大事な役目……」  俯く言葉の頭を、書道はその大きな手のひらで優しくなでた。 「大丈夫。この勝負に知識は不要じゃ。むしろ無いほうが今回は有利なはずじゃ」  書道はそう言うと、言葉をテーブルのほうへと向かわせながら青儀を見て言った。 「そういうわけで、今度はわしの孫が相手をさせてもらうぞ」 「いいでしょう」  視線を向けられた青儀は、微かな笑みを浮かべて椅子から立ち上がる。  言葉は、ふと未だに白目を剥いて倒れているスイーツ仮面を見た。 「あんたの尊い犠牲は無駄にしないから」  そうつぶやいて、言葉は万年筆で青儀を指しながら言った。 「さあ、勝負よ!」  対する青儀は、言葉を見下ろして冷笑を浮かべた。        ◆  銀色に光る二本の万年筆を前に、言葉は唸っていた。  見た目は同じ、持ってみた感じも同じ、二つに違いは無いように思えた。 (どうやって見分けろっていうのよ)  言葉は早くも途方に暮れる。  プロの目でも見破れないほどのコピーなのだ。ただの学生である自分にわかるはずがない。 「もー、どうすればいいのよ!」  言葉はテーブルに両手をついて、万年筆を睨みつけた。  苛立ちに、右手の人差し指がテーブルを小刻みに叩く。  トントン ト トントトント トトトト トントントン。  そして、それは突然聞こえてきた。 《ナーニ?》  耳ではなく、頭の中に広がるような声。  言葉は書道達のほうを見る。 「言葉さん、頑張ってください!」  絵美が応援する横で、書道は笑顔で手を振っている。  そして文章は、開いた手帳に視線を落としていた。 (気のせい?)  テーブルへと視線を戻し、言葉は勝負に集中しようと深呼吸をする。 (何か手がかりを探さないと)  目を閉じて、言葉はこれまでの勝負を思い出す。  自分にはオリジナルとコピーを比較してもわからない。  それなら比較ではない、別のアプローチが必要だ。 (本物らしい本物。偽物らしい偽物)  小刻みだったテーブルを叩く音が、次第にゆっくりになっていく。 (そんなの、それっぽい印象でしか……)  頭をよぎった違和感に、言葉は息を止めて数秒思考を巻き戻す。  そして、言葉は顔を上げて真っ直ぐに青儀を見て言った。 「ちょっとタイム!」  相変わらず優雅なティータイムを過ごしていた青儀は、手にしたカップを揺らすことなく言葉の視線を受け止める。 「これが最後ですからね。まあ、いいでしょう。わかっているとは思いますが、テーブルにある万年筆は、そのままでお願いしますよ」 「感謝するわ」  言葉は優雅に一礼すると、書道のところへと向かった。 「おじい」 「言葉、どうした?」  何か考えているのか、視線を合わせることなく俯いて言う言葉に、書道はどこか楽しそうな声で尋ねる。  言葉は、テンポを刻むように頬を人差し指で叩きながら、ゆっくりと書道に言った。 「クーロンのオリジナルが、どこにいるかわかる?」 「いや。文章君、手帳に何か変化はあるかな?」  文章のほうへ視線を向ければ、手帳を見ていた彼は首を横に振る。 「クーロンって電磁波を操るのよね?」 「ああ」  再び下を向いて、言葉はつぶやき続ける。 「そして、あれにもクーロンが使われている……」 「言葉さん……」  そんな言葉を、絵美は心配そうに見つめていた。 「言葉ならわかるはずじゃ」  肩に乗る大きな手に、言葉は書道を見上げた。 「おじい……」「自分を信じるんじゃ。みんなの思いが力になってくれるはずじゃ」  言葉は周囲を見回す。多くは諦めの表情を浮かべていたが、期待を込めて応援してくれる人もいないわけではない。  そして、言葉は青儀へと視線を移す。  テーブルの上をただ見つめる青儀の姿が、そこにはあった。 「おじい、プリントにも思いは伝わると思う?」  言葉は青儀を見たまま、書道へと問い掛ける。 「もちろんじゃ」  楽しそうに言う書道に、言葉も笑みをその顔に浮かべた。  そして立ち上がると、決戦の場へと戻っていった。        ◆ 「待たせたわね」  言葉は、テーブルの前で万年筆を見つめていた青儀に声をかけた。  しかし、青儀は万年筆を見つめたまま何も答えない。  その様子に言葉が青儀の顔をのぞき込もうとすると、青儀はハッとして少しぎこちない笑顔を浮かべながら聞いていた。 「何かヒントくらいは見つかりましたか?」  言葉は訝しむが、青儀はすぐに踵を返して椅子へと戻りながら言う。 「まあ、違いに気づいたとしても見破ることはできないでしょうが」  青儀が椅子に座るのを見届けると、言葉は頭を切り換えて目の前にある二本の万年筆を見た。  再度、片手に一本ずつ乗せて重さを感じてみたり、二本を並べて長さや太さを比べてみる。 (やっぱり、わたしには同じにしか思えないか)  言葉は万年筆をテーブルに置くと目を閉じた。 (クーロン、電磁波、印象、感じ、感覚……)  テーブルを叩きながら、言葉は思い浮かぶままに断片的な単語を並べていく。  音はテンポを刻み、一つ一つのイメージを思考へと組み立てる。  トントン トトン トントン トトン。  そして言葉は、単語の中から一つの名を再び呼んだ。 (クーロン)  周囲は何も変わらず何も反応はない。しかし、言葉は続ける。 (クーロン、お願い! 応えて!)  思考に応えるものはなく、周囲の落胆を含んだざわめきが忍び寄る。  言葉は大きく息を吸い込んだ。  そして、ざわめきを吹き飛ばすようにテーブルを平手打ちする。 (クーロン!!)  テーブルを打ち付ける音に周囲は静まり返るが、 「大切なテスト機に何をする!」  青儀は慌てて抗議の声を上げた。  しかし、言葉は無言のまま深呼吸をすると、もう一度手を振り上げる。 「おい! 速水、やめさせろ!」  青儀の声とともに、人の近づく気配がする。  そのとき、言葉は振り上げた手に違和感を覚えた。 「痛っ!」  手の甲に走った痛みに顔をゆがめ、言葉はその手を抱きしめた。  痺れるような痛みは次第に熱を帯び、鼓動のような響きを生み出す。  そして、響きは一つの答えを生んだ。 《ヨンダ?》  腕を伝う微かな痺れとともに、それは確かな声として頭に響く。  言葉は抱えていた手をゆっくりとほどき、熱を持った手の甲に視線を落とす。  そこには見覚えのある円形模様が、手紙にいたときと同じ大きさで描かれていた。 「ふふふふ……」  言葉の口から不気味な笑い声が漏れる。 「君、大丈夫か?」  落ち着いた声色の問い掛けに顔を上げれば、サングラスの男が心配と警戒の混じった色を浮かべていた。  言葉は手の甲を隠すようにして、胸の前で手を合わせながら目の前の男に笑顔を返した。 「ごめんなさい。ちょっと緊張しちゃって」  警戒の態度を崩さない速水に、言葉は笑顔のまま「大丈夫だから」と念を押す。  そして、その笑顔のまま青儀のほうへと視線を向けて言う。 「心配をおかけしました」 「今度、同じようなことをやったら即刻負けだぞ」 「ええ」  笑顔のまま答える言葉に、青儀は不機嫌ながらも少しは安心したのか、それ以上は何も言わずに腰を下ろした。  それに合わせるように、速水も青儀の傍らへと戻る。  言葉は周囲の落ち着きを確認すると、深呼吸をして声に出さずに語りかけた。 (クーロン、手のひらに来て)  胸の前で重ねた手のひらを見れば、そこには円形の姿がある。  言葉は小さく頷くと、次は袖の中へ移動するように思考する。  腕を伝って袖の中へと消えるクーロンを確認すると、言葉はテーブルの上に視線を戻した。  そこには、二本の銀色に光る万年筆が変わらずにある。  二本の銀線を手のひらに載せ、言葉は目を閉じてクーロンへと呼びかけた。  それは自分を中心に広がるイメージ。  商店街に散らばるコピーを、HARごと一つに繋げていく。  そして、商店街を覆うようにクーロンの場が形成される。  言葉は、場を俯瞰するようなイメージの中に、クーロンとは違う小さな靄の塊を幾つも見つける。  それは、商店街の一カ所で輪を形成していた。  言葉はそこへ意識を集中する。まるで上空から雲の中へと降りていくように。  輪の中へと思考を潜り込ませれば、キャベツのような小さな靄の塊が幾つも並んでいた。  その一つに言葉は触れる。 (あんな子に任せて本当に大丈夫なのか?)  別の一つに触れてみる。 (あー、腹減ったなー)  次々に言葉は触れていく。 (頑張って) (あの子、寝てるんじゃないか?) (この集まりは何をやっているのかしら?) (言葉ちゃん、この商店街を守っておくれ) (どこのカメラで撮ってるんだろ?) (今は、あの子に頼るしか……)  それは人の思考。商店街の人々の心の声だった。  言葉は、人々の思考を撫でるように覗いていく。  そして、自分の近くにあった思考の一つに触れた。 (待って、僕の可愛い子猫ちゃん)  その瞬間、言葉の背筋に寒気が走り抜ける。 「さ、最悪なものに触れてしまった」  うなだれながらも目を開けて声の主を見れば、そこには和毅に膝枕されて気持ちよさそうに寝ているスイーツ仮面の姿があった。  言葉は頭を振って気を取り直すと、再び目を閉じて集中する。 (万年筆のイメージに限定したほうがいいわね)  もう一度イメージを俯瞰に戻すと、言葉は靄の群れに万年筆というイメージを重ねていく。  全体的に靄は薄くなり、その中で相変わらず濃いままの場所が二カ所だけ浮かび上がる。  一つは、さっき触れた中にあった雪村のもの。  そして、もう一つ。それは自分の正面にあるもの。  言葉は自分が緊張していることを自覚しながらも、その靄に触れた。  その瞬間、言葉は引き込まれるような感覚に襲われ、意識が闇で塗りつぶされた。        ◆  雨が降っていた。  灰色の空気の中を、傘を差すこともなく佇む男がいる。  その前には立派な墓標があった。  男は喪服を雨に濡らしながら墓標を見つめている。  その顔には、何かをごまかすような笑みが浮かんでいた。 《私は悪党にさえなれない愚か者だな》  感情とともに漏れる笑い声は、雨音の中へと霧散していく。  そして、男は陽のない空を見上げた。  重厚感の漂う、しかし無駄のない書斎に青年はいた。  青年は居心地の悪さを隠すことなく、不機嫌そうな顔をしている。  だらしなく着崩した制服は所々が破け、口の中には血の味が広がっていた。  書斎机には一人の男がおり、青年をただ見つめている。 《おまえは……》  男はそこまで言って、何かを振り払うように頭を軽く振る。  そして、引き出しから小さな箱を取り出すと、青年を近くに呼んだ。  箱に興味を惹かれたのか、青年は書斎机の手前に足を運ぶ。  青年が近くに来ると、男は箱を開けて中身を取り出す。  箱には、銀色をした小さな筒状のケースが入っていた。  男はケースを開いて中身を見せると、自分は椅子を回転させて背を向ける。  そして、そっけない口調で言った。 《これを持っていけ》  ケースには銀色の細長いペンが入っていた。  青年は子供のように喜びの声を上げる。  そして、さっさと箱をケースにしまうと、軽く礼を言って書斎から出て行った。  カウンターの向かいにいる男に青年は話しかけていた。  男は銀色のペンを手に、苦笑いを青年に向けた。  手を合わせてお願いをする青年に、男は渋々といった感じで電卓型のHARディスプレイを見せる。  青年はディスプレイをのぞき込むと、少し考えるような仕草を見せたが、頷くと男に笑顔を向けた。  男は安堵の表情を浮かべ、小さなトレイに十枚程度の紙の束を載せて青年に渡す。  それを受け取ると、青年は軽く礼を言って出ていった。        ◆  言葉は目を開けて、手のひらを改めて見つめる。  そこには、変わらず二本の万年筆がある。  しかし、それは言葉にとって既に同じものではなかった。 (ずっと、待ってたんだね)  言葉は万年筆を握りしめて思う。  冬の雨のように冷たかったそれは、徐々に温もりを思わせる雪へと姿を変える。  雪は降る。想いとともに言葉の心へと。  手のひらで雪の粒が溶けるように、言葉の頬を何かが流れ落ちた。  驚きの表情を浮かべる青儀に、言葉はごまかすように笑みを浮かべる。  そして、濡れた頬を拭って大きく深呼吸をすると、言葉は自信に満ちた瞳を青儀に向けて言った。 「待たせたわね」        ◆  商店街には歓声が響き渡っていた。  書道や商店街の人たち、文章や絵美も言葉を囲んで嬉しそうな笑顔を見せている。  そして、いつ起きたのかスイーツ仮面は「正義は常に勝つのだ」などと言って高笑いを上げていた。  そんな中、自分のほうへ近づいてくる足音に言葉は視線を向けた。  視線と足音を繋ぐように、人々の間に道ができていく。  言葉の前まで来た青儀は、笑顔とともに手を差し出していった。 「改めて言おう。君の勝ちだ。おめでとう」 「あ、ありがとう、ございます」  少し恥ずかしそうに目をそらしながら、言葉は差し出された手を握り返す。  そして、力強く大きなその手の温かさに、言葉は青儀を見上げた。  手を繋いだまま、青儀が爽やかな声で言葉に尋ねる。 「一つ、教えてもらえるかな?」 青儀の目を見つめ返して言葉は頷いた。 「あれがオリジナルだと、どうしてわかったのですか?」 「それは……」  青儀の問いに、言葉は何かを思い出すように上を見つめる。  通りを覆う屋根の向こうには雲が一面に広がり、通りを冷たい風が吹き抜ける。  そういえば天気予報は雪だったと、そんなことを言葉は思った。  すっかり冷え切った両手を息で温めると、言葉はその手の内側にある円形の模様を見ながら言った。 「温かいものを感じたから……」 「……そうですか」  青儀はどこか納得したような表情で、優しい笑みを浮かべていた。  そんな二人の間に、一人の老人やって来る。 「雪村のおじいちゃん」  雪村は言葉に笑顔を返すが、一転して青儀には厳しい目を向けて言った。 「やっぱり、あんただったんじゃな」  そう言うと、雪村は手にした銀色の円筒ケースを青儀に見せる。「これは、あんたのじゃ」  ぶっきらぼうに言う雪村に、青儀はケースを見たまま黙り込んだ。  ケースに向けられた視線は微かに震えていたが、それでも青儀は恐る恐る手を伸ばす。 「ああ、やはり……」  そしてケースを手にすると、ゆっくりそれを開いていく。  ケースに収まった銀色の万年筆を見つめて、青儀はつぶやきとともに涙をこぼす。 「やっと、見つけた」 「青儀さん、それは……」  言葉の問い掛けに、青儀は息を整えると静かに語り始めた。 「これは、父からもらった成人祝いの贈り物なのです。しかし、当時の私は父に反抗して遊びほうけていましてね。家の物を勝手に売っては遊ぶ金にしていました。そして丁度その日も、遊ぶ金がなくて困っていたのです。その三日後に、父が事故で亡くなることも知らずにね」  力なく笑う青儀に、雪村は折り畳まれた一枚の紙片を差し出した。 「ケースに入っていたそうじゃ」  紙を受け取りながら、青儀は驚きの表情を浮かべる。 「え、私が受け取ったときには万年筆以外には……」 「反対側じゃ。ロゴの入った板がスライドするじゃろ」  雪村の言うとおりに青儀は、万年筆の収まっていたケースの半円筒部分ではなく、ただのふただと思っていた、もう一つの半円筒部分にはめられていた板をずらす。  すると、そこにはインクコンバーターなどの付属品が入っていた。 「本当に私は、何も見えていなかったのですね」  そう言うと、青儀は雪村から紙片を受け取って広げた。  そこには、こう書かれていた。 『Buon giorno a te.(素晴らしい朝を君に)』        ◆ 「なんか、疲れたー。ねむいー」  絵美の腕にぶら下がりながら、言葉が甘えた声で言う。 「そうですね」  苦笑いを浮かべながら、絵美は相槌を打ってそれに応えた。 「あんたは、食事して買い物してただけでしょ?」 「ひどい!」  ジト目で言う言葉に、絵美は言葉を振り解いて走り出す。  その向かう先には、書道と文章の姿があった。 「文章様!」 「うわっ!」  絵美は文章に後ろから抱きつくと、思わず立ち止まった文章の前へと躍り出た。  そして、綺麗にラッピングされた箱を両手で差し出す。  文章はいきなりの展開について行けず、思いついた疑問をただ口にした。 「これは?」 「万年筆です。文章様にお似合いだと思って」  そんな二人を、言葉は文章と書道の間から顔を出して半目で睨みつけていた。  しかし、絵美は気にすることなく文章との話を続ける。 「お昼のお礼ですから遠慮しないでください。あ、でも食事代に困ったからって売らないでくださいよ?」  上目づかいで言う絵美に「わかった」と頷くと、文章は箱を受け取った。  そして、箱をしばらく見つめると、文章は絵美を見て言った。 「神代さん」  文章の呼びかけに、絵美は小首をかしげて彼を見る。  文章は恥ずかしそうにしながらも、そんな彼女を真っ直ぐに見つめて言った。 「ありがとう」  それを聞いた絵美は、両手で顔を隠すと体をくねらせ始めた。 「なに、顔を赤くしてるのよ」  言葉は文章の腕をおもいっきりつねると、抗議の声を無視して隣の書道に話しかける。 「おじい、結局あのクーロンのコピーって何だったの?」  言葉は、勝負が終わるとすっかり消えてしまったコピーについて尋ねた。 「あれはコピーに似とるが、サインマーカーと言って、サインの影響範囲に現れるただの印じゃ。恐らく、撮影や通信ができないように、HARに使ったコピークーロンで結界を張ったせいで現れたんじゃろ」  それでクーロンの大きさが変わってなかったのかと納得しつつ、言葉は青儀会長のことへと思いを巡らす。 「結界ね。じゃあ、青儀会長もプリントが使えるってことかー」 「いや、恐らく青儀はプリントのことは知らんじゃろ。そういうことができるチップか何かという形で、何者からかの提供を受けたんじゃろうな」 「何者って誰から?」  言葉の質問に書道は少し考える素振りを見せたが、事も無げに「わからん」と言うと「あのスイーツ仮面とやらも何者なんじゃろうな?」と一人で考え始めてしまう。  すっかり忘れていた名前の登場に、言葉は今日の出来事を思い出して気が重くなった。 (次に会ったら、どうしよう?)  脳天チョップに鳩尾への正拳突き、そして最後は足払いの三連コンボ。  どれも綺麗に決まったなと思い返して現実逃避をしていると、横から文章の声が聞こえてくる。 「言葉。おまえHARが人の思考をフィードバックしてるって、よく気づいたな」  言葉は手の甲にクーロンを呼ぶと、それを空にかざして言った。 「んー、本物らしいとか偽物らしいとか、プロがそう言うのって変じゃない?」 「そうか? プロの直感ってやつだろ?」  それのどこがおかしいのかと、不思議そうな表情を文章は浮かべる。 「直感って、その人の経験に裏打ちされたものでしょ。直感で選んだとしても、それを説明できないっておかしいでしょ。自分の経験だよ。ましてやプロが『らしい』って」 「そ、そうだな」  有り得ないでしょと言いたげな言葉に、随分と上から目線だなと文章は思いつつも取り敢えず頷いた。 「だから、もしかしたら印象というか個人的な感覚や思いみたいな、言葉にしにくいようなものをHARは触った人に伝えているんじゃないかって思ったわけ。あとは、クーロンの力が電磁波を操るってことからピンとくるでしょ? 人の脳に直接働きかけてるんじゃないかって」 「おまえ、意外と考えてたんだな」  感心する文章を横目で睨みつけながら、言葉は話を続ける。 「意外は余計よ。わたしの想像力をなめないでくれる? それに今思えば、重さまで再現するなんて、どんな重力魔法よって感じじゃない」  最後の魔法という単語に違和感を覚えつつも、文章はふと思いついた疑問を口にした。 「それにしても、言葉はいつクーロンと契約したんだ?」 「やっぱり、あのテーブルを叩いたときじゃない?」 「いや、勝負が終わった後も青儀会長の近くには一つだけクーロンの反応があったし、それにあのときは声で認証してないだろ?」 「そういえば、そうね」  言葉は書道を見るが、書道は肩を竦めるだけだった。 「クーロンさんに聞けないんですか?」  絵美が文章越しに言ってくる。 「その手があったか」  言葉は手の甲にいるクーロンへと、いつ契約したのか聞いてみる。  すると、手に走る鈍い痺れとともに意思が聞こえた。 《ナンジャ、コリャ?》  クーロンの返事に言葉はしばらく考えを巡らすと、俯いて何かをこらえるように肩を震わせ始めた。  絵美と文章は、その不気味さに自然と一歩を言葉から引く。  その直後、言葉は顔を上げると手の甲を睨みつけて叫んだ。 「だったら、さっさと出てこいやあああああ!」  言葉の怒りは、雪の降り始めた空へと虚しく響き渡った。        ◆  数週間後。  HARのアップデートは、当初の予定どおり行われた。  その反響はすさまじく、テレビでもネットでもその話題で持ち切りだった。  勝負の様子もしっかりCMとして放送され、『HARの実力を体験するならここ』ということで、商店街の売り上げも伸びているらしい。  ただ、店のほとんどが個人経営で突然増えた客への対応に苦慮しているとことや、HARがその場で使えないことを残念がる人が多く、売り上げの一部でHARを導入しようという話もあるとかないとか。  そんな感じでHARに沸き立つ世間だったが、言葉はそれとは関係なく書道のロッジに来ていた。 「大事な話って何かな?」  隣の文章に話を振れば、文章はテーブルに置かれたクッキーを頬張りながら、わからないという仕草で答えた。 「まあ、茶でも飲みながら気楽に聞いてくれ」  そう言って書道は持ってきたティーセットをテーブルに置くと、それぞれのカップに紅茶を注いだ。  言葉は淹れてもらった紅茶を一口すすると、さっそく書道に用件を尋ねた。 「それで話って何?」  話を促す言葉に、書道は自分のカップにも紅茶を注ぐと、それを一気に飲み干して話し始める。 「しばらく屋敷を離れることになってな。その間のことは文章君に任せようと思っておるんじゃが……」  そう言って書道は、文章ではなく言葉を見た。  そのことに疑問を抱きつつも、言葉は話を進めるように書道に頷き返す。 「言葉、文章君のことは好きか?」  書道の問いに、言葉と文章の時間が数秒静止した。 「い、いきなり何言ってるの⁉」  言葉は驚きの声を上げたが、文章は驚きの余り口を開いたまま固まっている。 「いや、おまえクーロンと契約しておるじゃろ?」 「?」  話の展開について行けず、言葉もそのまま固まる。 「今回の件でわかったと思うが、プリントには今の科学の範疇を超えた力がある。それは人類にとって有益である反面、悪用されたり使い方を間違えれば、当然のことじゃが人類を危険にさらすことにもなる。特にオリジナルともなれば、人類の歴史そのものに影響を与えかねないほどの力があると考えられておる」 「へ、へえ。そうなんだ……」  真剣な表情で人類の歴史云々を語り始めた書道に、言葉は激しく鼓動を打ち続ける胸を抱きしめながら頷いた。  オリジナルであるクーロンは、何故か手帳に入ることを嫌がり、今は言葉の胸の表面をその住処にしていた。 「その力を手に入れた以上、制御する術を身に付けないと危険じゃ」 「契約を取り消すことはできないのかな?」  少し落ち着きを取り戻して言葉は書道に尋ねるが、書道は難しそうな顔をしながら答えた。 「オリジナルの契約は双方の同意で成立するんじゃ。じゃから、契約の破棄も双方の同意があれば可能なんじゃが……」  そう言って、書道は言葉の胸をのぞき込む。 「ちょっと、どこ見てるのよ⁉」 「いやあ、大分気に入られたようじゃからな」  書道はすぐに目をそらすと、紅茶をすすり始めた。 「そんなわけでじゃ、言葉が文章君を嫌いでなければ、わしが留守の間、文章君とともにプリントについて学ぶのはどうかと思ってな。それに、言葉は来月から受験生じゃろ? ここは静かで受験勉強には丁度良いぞ?」  言葉は未だに固まったままの文章を見ると、少し考えてから口を開いた。 「まあ、契約が取り消せないんじゃ……」  そこまで言ったとき、突然ロッジの扉が勢いよく開いた。  そして、そこに突如現れた人影が仁王立ちで言い放つ。 「ちょっと待ちや!」  その声に気を取り戻したのか、文章が扉のほうを見てその名を呼んだ。 「神代さん?」 絵美は文章に笑顔を向けると、すぐに言葉を指さして言った。 「言葉さん、抜け駆けは許さへんで!」 「抜け駆けって……」  額を押さえる言葉をよそに、着物に身を包んだ絵美は足早に書道の前へと来ると、懐から扇子を取り出して書道へと突きつけた。 「私も文章様と同棲させていただきます!」  絵美の宣言に、言葉は慌てて説明する。 「同棲⁉ 違うわよ! プリントのことをフミ兄に教えてもらうだけなんだから! それに、あんたは辞典返したんだから関係ないでしょ?」  しかし、絵美は微動だにすることなく、真っ直ぐ書道を見つめていた。 「書道様、問題ありませんよね?」  その顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その目は一ミリも笑ってはいなかった。  書道の額に汗が浮かび始める。 「そ、そうじゃな。部屋は余っておるし、しっかり者の神代君がいてくれれば、より安心じゃな」 「ちょっと、おじい!」  書道は乾いた笑いを浮かべつつ、抗議の声を上げる言葉から目をそらした。 「では、そういうことで」  絵美は満足そうにそう言うと、文章の隣に座って両手をついた。  そして、深々とお辞儀をして言う。 「不束者ですが、末永くよろしくお願いします」 「え、あ、はい」  釣られて文章もお辞儀を返す。 「はい、じゃないでしょうが!」  怒鳴り声とともに、言葉は雷が落ちるイメージを思い浮かべながら文章の脳天へとチョップを落下させた。 《カミナリ、ゴロゴロ?》  頭に響く声とともに胸に鈍い痛みが走る。 「いっ……」  言葉は脳裏をよぎった嫌な予感に、その手を止めようとした。  しかし、痛みに縮こまった体は逆に手を加速さてしまう。  そして文章の頭に言葉の手が触れた瞬間、ロッジ全体が電子レンジと化した。  全身の毛という毛は逆立ち、重低音を聞かせた羽虫の飛ぶような音が頭を揺さぶる。  それは数秒続き、静寂が訪れると言葉達は糸の切れた人形のように倒れ込んだ。  チーンというベルの音とともに玄関の扉が開いていく。 「こ、事は急を要するようじゃな」 「そう、ですね。命に関わる、緊急事態です」  書道と文章は、痺れの残る体をなんとか起こしながら口々にそう言った。  そして絵美は文字通り髪を逆立てて、言葉の目の前に自分の腕を突き出しながら怒鳴り声を上げた。 「このカサカサになったお肌、どうしてくれるんや!」 言葉はテーブルでうつぶせになったまま、力なく笑うしかなかった。  体全体が火照って、極上の毛布にくるまれているように心地好い。 「これは、よく眠れそうね」  顔を引きつらせながらそう言うと、言葉はゆっくりと目を閉じた。        了