【第四章】  滝の裏側のように、ガラスで出来た壁面を激しい雨が打ちつける。  月は雲に隠れ、代わりに街灯の明かりが微かに部屋の中へと入り込んでいた。  ほとんど動きのない室内を、時折轟く雷鳴とその光だけが、激しさを持って存在を主張している。 「う、うう……」  冷たい床に横たわった少女が、微かに呻き声を上げる。 「気がついたか?」  うっすら目を開け始めた愛に、横でしゃがみ込んでいたキリエが呼びかける。  阿戸部も愛の様子を屈んで見下ろしていたが、その目は眠そうだった。 「あ、れ? わたし……」  薄暗い室内に浮かび上がる大小二つの影を見上げながら、愛は思考を巡らした。  しかし、思い出そうとすると鼓動が早鐘のように鳴り響き、頭をかき回されるようなめまいに襲われる。  顔をしかめる愛に、小さい影が心配そうに言う。 「人格と魂を再構築したばかりだ。余り無理はしないほうがいい」  それはキリエの声だったが、何を言っているのか愛にはよくわからなかった。  揺らめく世界の中で、愛は何か確かなものをつかもうと記憶の中へ手を伸ばし続ける。悪夢のように濃い霧を振り払い、痺れるような軋みを越えて、愛は月明かりの中へと左手を伸ばした。  そして最初に見えたのは、無言で椅子に腰掛ける父の横顔だった。 「父様!」  悪夢から目を覚ますように、愛は左手を伸ばしたまま勢いよく上半身を起こした。  心臓は軋みながら大きな鼓動を放ち、それに応えて鋭い痛みが頭を打ち鳴らす。  愛は左手で胸を押さえ右腕で腰を抱くように体を包み込むと、静かに吐息を漏らした。  すると雑音は波が引くように収まっていく。愛の狂った全てを調律しながら。 「大丈夫か?」  俯く愛の背を支えながら、キリエは声をかけた。 「大丈夫? そう。わたしは、大丈夫」  手のひらを見下ろしながら、自分に言い聞かせるように愛は声を吐き出していく。  そして、ゆっくり立ち上がると周囲を見回し、彼女は白い椅子へと向き合う。 「上瀬・愛」  その背を見ながら、キリエは彼女の名前を呼んだ。  愛は答えることも振り向くこともせず、暗闇に浮かぶ父の前に立つと、その頬にそっと指先で触れた。 「冷たい」  それでも愛は、その手で父の頬を、もう自分を見て笑うことのない顔を優しく撫でる。 「冷たい、ね。父様」  愛は父の肩に額を預け、息遣いも鼓動も聞こえない父を優しく抱きしめた。  瞳を閉じれば大きな雫が一つだけ、まぶたから溢れて落ちていく。  それは、ワイシャツの胸ポケットへと向かい、 「?」  何か硬いものに当たる音が愛の耳に届いた。  目を開けてポケットの中を見れば、そこには小さく折り畳まれた紙がある。  愛は、微かに震える指で紙を取り出すと、それをゆっくりと広げた。  そこには父の字が並んでいた。 『残り半年もないこの命を、私は月虹とともに愛へ捧げよう。  私達家族が幸せであったことの証を。そして、愛が幸せであるようにとの願いを込めて。  夕美と私の弱さが悲しい思いをさせてしまっても、それが不幸ではないと思えるように。  誰かが悪いということではないのだと、自分を責める必要はないと一歩を進めるように。  そして、愛が生まれてくれたことを、私と夕美がどれだけ嬉しく思っていたかを残して。  私達の家族になってくれて、本当にありがとう。永遠の愛を願って』  愛は雷鳴の中、声を上げて泣いていた。  激しく雨が窓を打ちつける中、止めどなく涙を流し続けた。  それを黒服の二人は、ただ沈黙して見守ることしかできない。  どれだけの時間が過ぎただろうか。  涙のかれた顔で、愛は文字の滲んだ手紙を制服のポケットへとしまった。  すると、ポケットの中で別の何かが指先に触れた。  愛は、それをつかんで取り出す。  ポケットに入っていたのは、アルベルトにもらったブックマッチだった。  しばらく愛はそれを見つめ、そしておもむろに橙色のマッチに火をつけた。 「おい! 何をする⁉」  キリエが叫び、マッチを持つ愛の腕へと手を伸ばす。  彼女の腕をつかんだと思った瞬間、それは水面に浮かんだ鏡像のように、火の輝きとともに揺れて消えた。 「さようなら、父様」  そして父の背後に揺らめき現れた愛は、そう言って小さな火を月虹へと放った。 《ありがとう》  言葉の響きとともに、火は万華鏡に映し出されかのように際限なく複製され、炎へと姿を変えて室内を蹂躙する。  瞬間的に膨張した空気が窓ガラスを吹き飛ばし、雨と風が流れ込んできた。  しかし炎は消えることなく、壁の月も虹も椅子に座る父も、全てをその中へと飲み込んでいく。 「また、なのか……」  炎の海を前にして怯え震えるキリエを、阿戸部は後ろから抱きしめた。  愛は、残ったマッチを炎の中へと投げ入れる。  黄、緑、青、紫と、炎の中で色が散っていく。  そして、赤と藍は一際大きな炎を上げると、橙色の中へと溶けていった。  月虹が世界へ還っていく。  その光景を、三人は黙って見続けていた。