【最終章】 「すごい夕立だったな」  キリエは、傘から顔を出して空を見上げる。  さっきまで大粒の雨を降らせていた雲は過ぎ去り、暖かい日差しが降り注ぎ始めていた。 「なあ、おまえら。これはひどくないか?」  後ろから聞こえる声に振り向けば、ずぶ濡れの阿戸部が恨めしそうな顔を向けている。  キリエは傘を閉じると、隣を歩くレインコートを見ながら阿戸部に言った。 「わらわの傘を、案山子より無能なバカに貸す道理がどこにある。貴様は、その娘のコートにでも入ればよかったのだ」 「え? 阿戸部さん、愛のコートに入りたかったんですか?」  インディゴブルーのレインコートが、振り返って楽しそうに言う。  その大きな目玉のついたフードの中には、目を輝かせて阿戸部を見つめる愛の顔があった。 「そんなわけあるか」  阿戸部は面倒くさそうに、そっけない返事を返す。 「えー、阿戸部さんだったら歓迎したのにー」  残念そうな顔をしてそう言いながら、愛はフードをとって栗色の髪を揺らしながら阿戸部の腕に抱きついた。 「おい、キリエ。こいつをなんとかしろ」 「パペットの副作用だ。諦めろ」  体を傾かせながら言う阿戸部に、キリエは振り向くことなくさじを投げた。  服に染み込んだ雨と腕にぶら下がる愛にうんざりしながら、阿戸部はこうなった原因に思いを巡らせる。  月虹が燃えてなくなった後、阿戸部とキリエは近づくサイレンの音を聞き、愛を連れて取り敢えず家を出ることにした。  三人は近くのビジネスホテルで一晩を明かし、キリエは愛に一連のことについて改めて話をした。  愛と父が、アルベルトによって一種のマインドコントロールを受けていたこと。そして、愛をマインドコントロールから解放した際に、その副作用として性格の改変とアペンドと呼ばれる特殊な力の解放が起きたことを。  性格の改変については「違和感もないし、むしろ、すっきり絶好調って感じ?」と、余り自覚がないようだった。  アペンドについては、もともと愛に備わっていた力を解放しただけということもあって、キリエから簡単なレクチャーを受けると、自由に使えるようになった。 「このカエルコートも、そうなんだよな」  阿戸部は、キリエの剣みたいなものかと愛の姿に目をやる。  すると、こちらを見ていた愛と視線が合った。  愛は人懐っこい笑みを浮かべると、阿戸部の腕に体を押しつける。  柔らかく温かな感触が、レインコート越しにも伝わってきた。 「おい、離れろ」 「いーやーでーすー」  阿戸部が鬱陶しさに振り払おうとするが、愛は腕に力を込めて離れない。  それは駄々をこねる子供のようで、阿戸部はため息をついて諦めることにした。 「なあ、本当によかったのか?」  阿戸部は、独り言のような感じで愛に話しかけた。 「何がですか?」 「うまく言えないんだが、自分の家とか学校とか、そういう、なんか色んなものと離れちまって」 「阿戸部さん達こそ、ずっと旅をしてて家に帰ってないんでしょ?」  愛の疑問に、阿戸部は考えながら言葉を紡ぐ。 「まあ、そうだが……。俺には、そういう昔の記憶がほとんどないからな。よくわからん」  結局考えることを放棄して、阿戸部は平然とそう言った。  そんな阿戸部の顔を愛はじっと見ていたが、大きく息を吸うと胸を張って元気な声で答えた。 「いいんです! 父も母も自分勝手に生きたんですから、私も自分の好きなように生きてやるんです!」 「そうか」 「はい! そうなんです!」  余り興味なさそうに返事をする阿戸部だったが、愛は満面の笑みを浮かべて返事をした。  阿戸部はもう何も言わず、ただ前を向いて歩みを進める。  しかし愛の目には、阿戸部が少し嬉しそうな表情を浮かべているように見えた。 「あの、阿戸部さん?」  その優しい表情に、愛は思い出したように質問を口にする。 「前から気になってたんですけど、阿戸部さんって、実はキリエちゃんのお父さんだったりするんですか?」 「はあ? おまえ何言ってんだ?」  愛の質問に阿戸部の表情は一変し、心底心外だという顔を向けてくる。  そして前のほうで金属音が鳴ったかと思うと、愛の目の前に光る剣先が現れた。 「貴様!」  前を歩いていたキリエが、剣を向けながら睨みつけてくる。 「わらわを愚弄する気か⁉」 「え? 違うの?」  阿戸部とキリエを交互に見て、愛は驚きの表情を浮かべた。 「当たり前だ! 誰が、こんなナメクジの娘になるか!」 「ひでえな」  全力で否定するキリエに、阿戸部もいろいろな意味で嫌そうな顔をした。 「じゃあ、どういう……」  愛は腕を組んで目を閉じると、様々な可能性に考えを巡らせた。  すると、徐々に愛の顔は青ざめ、阿戸部の腕を突然離すと恐る恐る結論を口にする。 「ま、まさかロリコン……」  その衝撃の内容に、キリエはとっさに剣先を阿戸部に向けて距離をとった。 「阿戸部! き、貴様。やはり、そうだったのか⁉」  震える声で言うキリエに、阿戸部は「いや、違うから」と言ってうなだれた。  そして愛のほうを向くと、彼女を指さして疲れた声で言う。 「やっぱり、おまえは帰れ」 「だが、断る!」 「お・ま・え・なあ!」  即答する愛に阿戸部は拳を握りしめ、どす黒い炎をまといながら愛を睨みつけた。  しかし愛は臆することなく、なぜか恥ずかしそうに頬を赤らめると、上目づかいで阿戸部を見て言った。 「だって……」  その手を愛おしそうにお腹に当てて愛は続ける。 「アルベルトさんを見つけて、責任をとってもらわないと」  その仕草に、キリエは思わず剣を落とした。 「貴様、まさか⁉」 「なんだ? 腹が減ったのか?」  驚愕の表情を浮かべるキリエと不思議そうな顔を向ける阿戸部を見て、愛は少し考える素振りを見せると楽しげに言った。 「さあ、どうでしょう?」  元気にスキップをしながら、愛は止まったままの二人を置いて先へ行く。  そのとき、キリエは見逃さなかった。愛が小さく舌を出していたことを。 「このカエル女が!」  キリエは剣を振り上げて愛の後を追いかけていく。  頭をかきつつ、阿戸部はそんな二人を見つめて言った。 「なんか騒々しい奴が増えちまったな」  そして、阿戸部も二人を追って歩き出す。  ふと空を見上げれば、そこには大きな虹がかかっていた。        了